石垣 (4) 矢穴 (3) 御屋形跡など
寺院と城郭
今回、矢穴石の存在から伝池田丸下部について「石切場」という名称を使ってみましたが、隣接する女良岩のような巨石は相手にしていません。また、掘削穴も確認できません。
観音寺城では、おそらく特定の採石場(石切場)といったものはなく、周辺の自然石の「採集」や曲輪掘削時に出土した石材の利用を基本にしていたと考えられます。
観音寺城技法は、適当な大きさ(運搬可能な)に分割(小割り)にすることが目的で、巨石や露頭からの切り出しや、築石の大きさや形を整えることは考えていないと思われます。
また、矢穴がまとまっている伝池田丸・大石垣・御屋形跡でも全体の1%以下(各石の辺の2/3が裏面に隠れていたとしても)。城域(寺域)全体の石垣からみたら、1000個に1個、0.1%にも満たないと思います。1%にしても0.1%にしても、数値としては実際にカウントしたものではなくてイメージに過ぎませんが、あくまでも少数派でありイレギュラーな存在です。実際には0.01%レベルかもしれません。
この段階の矢穴技法は、石垣普請の石材採掘工程にも、加工工程にも積極的に関与しているとは思えません。
それでも矢穴が「城郭石垣」発の技術であれば観音寺城など六角氏系城郭は一画期であるかもしれませんが、もともとは石造物(石仏・石塔)製作のための寺社(とくに寺院)の技術として導入され、白山平泉寺(福井県勝山市)、長法寺(滋賀県高島市)など、少なくとも15世紀代には石垣普請などの土木技術にも転用されています。この段階で「観音寺城技法」は成立しています。
そもそも寺院由来の技術であり、金剛輪寺文書『下倉米銭下用帳』で明らかなように、観音寺城の石垣普請は金剛輪寺の西座衆などが請け負っています。観音正寺や桑実寺の寺院組織については実態が不明ですが。。
『信長公記』に記述のある安土城築城体制を見ても、天主建設の大工棟梁岡部又右衛門は熱田神宮の宮大工の棟梁、中井正吉は法隆寺番匠(宮大工)です。瓦は、唐仕様のために召し出した唐人一観の素性は不明ですが、基本は南都寺院系の「奈良衆」が行っています。それ以外にも京都・奈良・堺 の大工や職人をかき集めました。石の担当奉行としては、西尾義次・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某の名がありますが、彼らはその後の経歴を見ると、どうも石工集団とは無関係のようで、残念ながら安土城築城の石工集団は記載がありません。
信長以降、寺院勢力は衰退し、石工集団は自立しますが、泉州堺や大坂などに拠点を構え、大名の依頼によって活動していたようです。
慶長5年(1600年)には、泉州堺の黒田八兵衛、辻本七郎兵衛、鹿野清左兵衛、能島与右兵衛らの石工頭が仙台に招かれ、伊達政宗の仙台城築城に参画しています。
備前藩の依頼で徳川大坂城築城に関わり、その後備前藩主の和意谷墓所 (岡山県備前市)など造営のために岡山に招かれた大坂の石工河内屋治兵衛が、池田光政の要望で藩の御用石工として召し抱えられたような例もあるようですが、武家が直轄の技能集団を組織していたということは基本ないと思います。
北原論文は寺院との関係にはっきりとはふれておらず、中井氏も、北原氏の論文を「センセーショナルな研究成果」(2011年)としていますが、これは武家中心的な偏った見方ではないかと思います。
藤岡英礼氏が、「観音寺城のような5~6メートルを越す高石垣は、近江の山寺では認められず、その点では寺院技術の転用ではなく、六角氏による遮断指向-城郭らしさを認めることができよう」(藤岡 2011年)と述べているように、観音寺城の石垣には、安土城の「さきがけ」となる革新性が認められます。そこには、六角氏の明確な意志があったはずです。ただ、矢穴については、この段階の革新性を裏付けるものではないと思います。
寺社と(城郭)武家との関係については こちら でもまとめています。
「観音寺城技法」その後 八幡山城
こうした矢穴技法は、織豊系城郭に継承されます。
天正4年(1576年)~天正9年(1581年)築の安土城にも観音寺技法は存在します。これは次回投稿します。
天正13年(1585年)に築城が始まった八幡山城(滋賀県近江八幡市)では、矢穴口長辺が10cm前後と観音寺城のものに比べてやや小さく、断面形も直線的な逆台形になるものが見られますが、矢穴列は2~3個が多いようです。やはり矢穴は少数派です。
ただ、八幡山城では、本丸西隅の隅角石で連続矢穴が確認できます。算木積み用の長方形(体)に切り出すことのために矢穴が連続して穿たれたのでしょう。矢穴石は隅角上部のみで、もしかすると修復時の可能性もありますが、八幡山城は、文禄4年(1595年)には廃城となっているので、それ以降まで年代が下ることはないはずです。
その後については、意識して追跡しているわけではありませんが、慶長期の石材需要の圧倒的な増加と継続化のなかで、石工集団の専業化と継続的な石丁場の成立があり、一連の工程の中で矢穴技法が定着するのだと思います。
そのあたりの具体例は、いずれ機会を見て歩いてみたいと思います。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(23)、安土城(2)に続きます。
2024年10月2日投稿