石垣 (6) 編年(石垣の変遷) (2) いろいろな石垣
石垣の勾配と高さのための工夫(2段積み)
石垣の分類、2回目です。
前々回の安土城の投稿でもふれましたが、観音寺城と織豊系を含む近世城郭との大きな相違点として石垣の勾配があります。
観音寺城と安土城については伊庭功氏が比較検討されていますが (伊庭 2014年)、これによると、高さ1間(1.8m)以上の石垣を対象とした場合、観音寺城では、90°~79°が全体の74.5%を占めるのに対して、安土城はバラツキが大きく、78°~74°が全体の18.2%ながらピークになるようです。
安土城ではとくに主郭周辺の石垣の勾配が緩やかですが、これは高さを出すための工夫であると同時に、石垣が天主などの建物の基礎としての役割をもつことになったことによると考えられます。
安土城に比べるとほぼ垂直に近い観音寺城の石垣ですが、高さを指向する中で工法の工夫が認められます。
観音寺城では、途中に休止部をもつ2段積みが3か所の石垣で確認できました。(写真1)の宮津口見付下石垣と、(写真2)の権現見付北側上石垣(A)(B)、伝後藤邸前面東石垣(C)(D)です。(写真1)の宮津口見付下石垣について、現地では気づきませんでしたが、もう1段上部に休止部があった可能性もあります(上赤▲)。
いずれも、基礎となる下部を築いてから、若干角度を変えて上部を積み足しています。
この3者ほどはっきりしていませんが、(写真3)の御屋形跡石垣(A)(B)や伝三国間東側下石垣(C)(D)でも石垣の繋ぎ部分が確認できます(赤線)。一端途中で整えて、自重で安定するのを待って上部を積み足すといった工程を示す痕跡だと思います。
積み方の項目で改めて取り上げますが、上部は荒っぽい乱積みでも、基礎部分は横長石を横積みにする整層(乱)積みで丁寧に仕上げられています。
宮津口の2段積みについては、たしか滋賀県職員の方の講座資料で(探せませんでした)、戦乱期が2時期あり、2段積みはこれに対応すると。上部は新たな戦乱期に積み足されものとの解説があったと記憶していますが、背後の斜面を見れば、とても下段のみで成立する石垣ではないことは明らかだと思うのですが。
石垣の曲輪区画と長さ
観音寺城は「総石垣の城」とも称されていますが、石塁・石垣による三方以上の曲輪区画は伝本丸、伝池田丸など主要部と伝淡路丸。伝三国間などの出曲輪的な曲輪のみで、伝三国間以外は石塁による区画です。
高石垣の多くは単独で、曲輪と無関係に築かれていてるものもあります。長さは御屋形跡が50m以上、池田丸南側下大石垣は途中に折れをもち、全体では約55mになりますが、多くは30m強止まりです。
・御屋形跡石垣 50m以上
・伝池田丸南側下大石垣 約55m(直線33.4m)、(高さ6.0m)
・伝後藤邸前面西石垣 33.6m、(高さ3.9m)
・閼伽坂見付西側石垣 33.4m、(高さ6.6m)
・伝後藤邸前面東石垣 32.5m、(高さ5.9m)
・権現見付北側上石垣 29.4m、(高さ7.0m)
写真はリンクになっています。
約30mが垂直に近い観音寺城の高石垣を維持するための限界値として認識されていたのかもしれません。
石垣の端部と隅角
安土城では、曲輪全体を石垣によって区画するため、直角の隅角以外にも地形に合わせた鈍角の隅角である「シノギ角(ずみ)」をけっこう見ることができます。シノギ角は織豊系城郭の特徴ですが、観音寺城では、閼伽坂見付西側櫓台状石垣(写真4)と伝池田丸南側下大石垣などごく少数です。大石垣は残念ながら正面を写真でとらえることができません。
前項でも書いたように、高石垣については、基本単独で直線的な石垣が一般的ですが、端部に隅角をつくり浅いコ字状になるものもあります。
隅角と端部を以下のように分類してみました。
なお、ここではシノギ角はのぞいています。
B1にしてもB2にしても、形と大きさが整った隅角石を使用しているわけではないので、すべての隅角を完全に仕分けできるわけではありません。B1の伝進藤邸前面東石垣(写真7(C))も一部は横長石を使用しています。
重箱積みは、熊本城など織豊期から近世城郭にあり、算木積みと並存しますが、B1については、そこにつながるものではないと思います。
B2には、他に現境内下部石垣などや権現見付東袖などがあります。もっとも完成形に近い算木積みは権現見付東袖ですが、権現見付は近世観音正寺の正門を兼ねていることから、江戸初期に積み直されている可能性もありそうです。
隅角については、理屈としてA1 ⇒ A2 ⇒ B1 ⇒ B2 の変遷が考えられるのではないかと思っていますが、実態からすると伝伊庭邸南側石垣は、東端がA2(写真6(B))西端がB2(写真8(B))で、権現見付東側上石垣も東端がA2、西端がB2(写真7(A))です。A1 ⇒ A2 ・B1 ⇒ B2 が妥当なところでしょうか。
観音寺城の石垣の分類を行った伊庭功氏は、隅角の「算木積み」の完成度が年代の尺度になるという考えから、さらに細かく分類されています(伊庭 2014年)。しかし、写真を改めて見れば見るほどそれぞれ個性があり、系統立ってまとめることはなかなか難しいのが現状です。
石垣の積み方
観音寺城にはさまざまな積み方の石垣がありますが、これも系統立って説明することはなかなかムズいです。
漠然と、荒っぽいものが古く、丁寧に整えられたものが新しく見えてしまいますが、同じ石垣でも人目に付く場所付かない場所、石垣の上部下部でもかなり違います。理屈として分類できても、実態として整理することはなかなか難しいと思いました。
石材
観音寺城の石垣の石質は、湖東流紋岩です。
・グリ石 自然の風化磨滅によって表面が丸みをもつもの。地表面にある湖東流紋岩はほとんどが風化しています。
グリ石(栗石)は、現在では15cm程度以下の建築物の基礎などで使用される円礫を指すようですが、ここでは大きさは問いません。
・割石 破断面を残すもの。繖山の湖東流紋岩は節理があるため、「割石」=人為的 ではありません。
矢穴石が存在することから人為的な割石も存在しますが、観音正寺・観音寺城の矢穴石はごくごく少数です。本谷 など谷部では多量の割石が採取できるので、観音寺城の割石の大半は自然の割石の可能性が高いと思います。
・加工石 一部に認めることができます。
ただし、加工石=矢穴技法ではありません。逆に加工石と思われるものに矢穴があったためしがありません。観音寺城の矢穴は、各辺2~3個であることから、荒割りを目的としていて、特定の形や大きさを割り出すことは意図していません。
一般的な見方としては「グリ石」⇒「割石」ですが、これはあくまでも「割石」が人為的な場合です。
観音寺城での石材の獲得は基本的に「採取」で、曲輪掘削時をのぞけば、地下の岩脈を狙って採掘穴を開けているわけではないので、グリ石か割石かは、石垣を構築する場所周辺の状況(露頭・崖面・谷など)に左右される可能性があります。本谷に隣接する伝進藤・後藤邸は割石を主体としています。
一方、尾根上では風化したグリ石が点在する状況が現在でも認められます。伝三国間や大目付などは、大型のグリ石を使用していますが、こうした(運搬が可能な程度の)大型のグリ石を使用している石垣は、石材を自由に選べた初期段階の石垣の可能性が高いと思っています。
なお、観音寺城の矢穴については、観音寺城の石垣構築に対して、何らかの積極的な役割をもっていたとは思えず、年代的な指標にもならないと考えています。観音寺城の矢穴と石切場(採石場)は こちら のリンクでまとめています。
石積み
・整層(乱)積み 「布積み」と基本的に同義ですが、布積みは近世城郭のイメージが強いので、報告書(滋賀県教育委員会 2012年)でも使用している「整層積み」を使用します。
整層積みは横目地が通るもので、整層乱積みは横目地の通りが悪いものです。観音寺城では、石材の形や大きさが整えられているわけではないので、基本は整層乱積みです。
観音寺城やそれ以前と推定される寺院や東山殿石垣(銀閣寺旧境内)(財団法人京都市埋蔵文化財研究所 2008年)あたりを見ても、横長石横積みの整層(乱)積みが基本です。低石垣ではもっとも安定感のある自然な積み方で、これはグリ石、割石、東山殿の加工石すべてに共通します。
東山殿など中世石垣については、こちら のリンク先にまとめてあります。
なお、観音寺城の整層(乱)積みは、基本的に築石と間詰め石の区別がはっきりしているものが多いように思えますが、大型のグリ石を使用している伝三国間や閼伽坂見付西側櫓台状石垣では間詰め石がほとんど認められません。
・乱積み 不定形(多角形)の石を組合せて積み上げる工法で、実態としてはかなり荒っぽい積み方に見えてしまいます。
しかし、(写真10(A))の伝平井丸西辺石垣最奧部のように、基礎部分は横長石横積みの整層(乱)積みで上部は乱積みとなるなど、乱積みと整層(乱)積みは同じ石垣で共存するケースがかなりあります。とくに高石垣は、整層乱積みとした(写真9)の伝進藤邸前面石垣、宮津口見付下石垣でも、上部に向かって乱れていく傾向があり、(写真7)の権現見付北側上部石垣、伝孫次郎邸石垣などの高石垣上部は小礫で無造作に積まれています。
少なくとも観音寺城では、整層(乱)積みと乱積みは共存します。
乱積みが古く、整層(乱)積みが新しいように見えてしまいますが、観音寺城よりも古いであろう寺院起源の石垣は、ほとんどか整層(乱)積みです。
中世石垣については、こちら のリンク先にまとめてあります。
ただ、この段階までの横長石横積みの整層(乱)積みは、横長石の長軸が石垣面と平行で奥行きがさほどありません。石垣が高くなるとともに奥行きのある石積みへ変化していく思われますが、それが観音寺城段階なのか、織豊期なのかは確認できていません。
・加工石積み 伝平井丸前面の特殊な石垣です。整層(乱)積みのですが、ある程度加工したと思われる板石を立てて使用しています。まるで、徳川大坂城虎口の蛸石などの巨石のようなもので、伝平井丸の特殊な役割を象徴しています。蛸石ほど薄くはないと思いますが、間違っても伝平井丸前面の石垣に手をかけて登ろうとしないようにしましょう。
これ、測量図作成してあるのでしょうか。ちょっと心配になります。
なお、伝落合丸や伝淡路丸の虎口や隅角には、伝平井丸のような板石や方形のサイコロ石が使用されています(写真12)。
平滑な石垣
観音寺城では、(写真13)のように石垣面を割石面で整え、石垣全体をおどろくほど平滑で直線的に仕上げている石垣があります。安土城につながる技術であり、チャートを対象としていた岐阜城の石工集団にはできない芸当だと思います。
この手の石垣は観音寺城でもごく一部であり、隅角は横長石を交互に配置していることから、おそらく観音寺城の最終段階の石垣ではないかと考えています。
次回は、観音寺城(観音正寺)の石垣の編年(変遷)です。
参考文献は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
観音寺城(25)に続きます。
2024年11月15日投稿