観音正寺・観音寺城の変遷 (2)
観音寺城の変遷
石垣編年から復元した観音正寺と観音寺城と変遷図を作成してみました。細かい部分の変遷は当然分からないので、半分模式図として見てください。
各期の解説は、次回と次々回に行います。
観音正寺・観音寺城のまとめ(要約)
ここまで26回にわたって連載してきました。ここまで長くなるとは思っていませんでした。長くなりすぎたので、要点をここでまとめておきます。
・観音正寺と観音寺城は共存
近江国は、比叡山延暦寺の強い影響下にあったため、六角氏は、天台宗系寺院勢力と対立するのではなく、宗教的権威を利用した。
・観音寺城築城 (14)
観音寺城は、六角定頼の時代、1520年代に山上の守護館として本格的に築城された。永禄11年(1568年)の信長上洛戦で六角氏は放逐され、観音寺城は廃城となる。
・観音正寺と観音寺城の立地 (4)
天台宗系山岳寺院は、稜線間の谷内に立地することが一般的で、観音正寺も、繖山南斜面に立地している。観音寺城主要部は、観音正寺の寺域をさけた繖山西尾根に築城された。
・観音正寺本堂 (10)(11)(12)
中世観音正寺の本堂は、永禄6年(1563年)に勃発した「観音寺騒動」で全焼するまで伝三井邸にあった。江戸時代の復興時に現境内に移動。
・観音正寺奧之院位置と観音寺城の防御 (12)
奧之院は、神仏の降臨地や開山祖師を祀る場である。中世観音正寺の奧之院は、繖山頂上側あった可能性が高い。主稜線を掘り残したり北尾根に堀切がないのは、観音正寺の意向(宗教的禁忌)による可能性がある。
・観音正寺坊院群 (6)
繖山南斜面に無数にあるひな壇状の削平地は、短く見積もっても500年以上の歴史の中で形成された観音正寺の坊院群である。坊院(僧坊/僧房)とは、僧侶の私的な居住空間(建物・区画)。家臣屋敷はこれを転用ないし借用した。
・観音寺城の六角氏家臣団屋敷地名 (4)
現在、曲輪(坊院)名として六角氏の家臣名がふられているが、これは、江戸時代に沢田源内が著した軍記物『江源武鑑』の影響のもと、18世紀後半に描かれた鳥瞰図に記載され、さられこれを郷土史家の田中政三氏、吉田勝氏が絵図と現地を照合したもの。中世にさかのぼる根拠はない。
・六角氏の家臣団集住政策 (4)
ひな壇状の削平地と家臣名呼称は、六角氏の「家臣団集住政策」とリンクして史実のように語られているが、家臣団を観音寺城に集住させたことを示す記録はない。大永3年(1523年)に、六角定頼が命じた城割の拡大解釈。
・観音寺城主要部 (15)(16)(17)(18)
観音寺城主要部は、一乗谷朝倉館との比較から、伝本丸が「常御殿」、伝平井丸が「主殿+会所」、伝池田丸については迎賓館的施設(会所)ないし嫡子・隠居御殿であったと考えられる。
・観音寺城の石垣 (25)
観音寺城の石垣は、「寺院の石垣」をベースとしてその転用(模倣)から始まり、「城郭の石垣」へ進化していった。石垣の築造は、六角定頼の時代にさかのぼる可能性がある。
「伝●●邸(丸)」はあくまでも曲輪(坊院)の固有名として使用するだけで、実際にその家臣屋敷であった可能性はまったく考えていません。
参考文献 は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
次回、次々回は、このまとめをもとに変遷図を解説します。
2024年11月15日投稿