観音正寺・観音寺城の変遷 (4) (最終回)
観音寺城 見付 (2)
観音寺城後期
観音寺城の変遷、最終回です。
観音寺城後期は、文献史料にもとづく築城3(・4)期、石垣編年のⅢ段階です。
六角義賢(承禎)・義治の時代で、天文21年(1552年)の義賢の代替わりから、永禄11年(1568年)の信長上洛戦で観音寺城を放棄し逃亡するまでの間です。
弘治 2年(1556年)には、金剛輪寺文書『下倉米銭下用帳』など改修記録が集中しています(築城3期)。また、永禄6年(1563年)の観音寺騒動で観音正寺が全焼していることから、この時期以降に観音寺城でも改修が行われた可能性があります(築城4期)。
観音寺城の高石垣と外郭ライン
この段階(石垣Ⅲ段階)は、石垣B(斜面(切岸)に築かれた高石垣)を特徴とします。
土留め的な低石垣は別にすると、観音寺城前期(石垣Ⅱ段階)の防御のための遮断(区画)石垣は、崖線であっても縁辺直上の平坦地に「石塁B」を築いていました。これに対して、観音寺城後期(石垣Ⅲ段階)は、斜面(切岸)に「石垣」を築くようになります。これによって、石垣高はおのずと高くなっていきます。
高石垣の高さの基準については曖昧なままにしていますが、(図2)は高さ3m~、4m~の石垣を太線で示してみました。悉皆報告書(滋賀県教育委員会 2012年)未登録の高石垣もありますが、今回は除外しておきます。
高石垣リンク
・伝三国間東側下石垣 高さ5.5m
・伝伊庭邸南側石垣 高さ7.0m
・権現見付北側上石垣 高さ7.0m
・伝孫次郎邸石垣 高さ5.1m。
・伝後藤邸前面西石垣 高さ3.9m
・伝後藤邸前面東石垣 高さ5.9m
・伝池田丸南側下大石垣 高さ6.0m
・宮津口見付下石垣 高さ4.4m。
これらの石垣は、主要な曲輪の縁辺ではなく、繖山中腹の斜面部に単独で築かれています。
ひとつひとつを見ていくと何を目的として築かれているのか謎ですが、全体を見ると同レベルの標高に並んでいたりして、どうも断続的ににつながっていた可能性がありそうだと考えました。
この高石垣列上には、伝池田丸下の大堀切、見付、帯曲輪などがあり、これらをつないだものがおそらく「外郭ライン」を形成していたと思われます。
権現見付・閼伽坂見付・宮津口見付と高石垣
見付(見附)とは城門のことで、ここでは外郭虎口として捉えています。 見付に関しては、過去に「薬師口見付」、「裏見付」について投稿(観音寺城(17))しています。そこで、観音寺城の「見付(見附)」の概略を書いてあるので参考にしてください
今回問題にするのは、「権現見付」、「閼伽坂(あかさか)見付」、「宮津口見付」です。
松下浩氏は、権現見付と閼伽坂見付について、「城域を区切る虎口としての意味をもたない」「近世観音正寺の遺構」としています(松下 2012年)。確かに権現見付右袖などは積み直しの可能性もありそうですが、権現見付北側上石垣と一体的で、見付としては観音寺城時代からあったと考えています。
閼伽坂見付には、西側に隣接して櫓台状の石垣が築かれています。この石垣は観音寺城前期のものですが、このことは、「外郭エリア」の形成時期が、観音寺城前期にさかのぼる可能性を示唆しています。
つづら折れの現閼伽坂道は、近世以降に整備された参道だと思いますが、閼伽坂道や権現見付の川並口道のルートそのものは中世にさかのぼると考えられます。繖山には、数多くの登城(参詣)ルートがありますが、ほとんどが中世起源で、近世以降に開かれた道は、林道をのぞくと意外に少ないのかもしれません。
閼伽坂見付西側の高石垣は、閼伽坂見付とほぼ同じ標高レベルに築かれていますが、見付とは関係していません。大手道兼表参道である本谷道を見下ろす位置にあるので、登城者に対する「威圧」を目的としてものでしょうか。
宮津口見付は、主殿である伝平井丸に直結する虎口です。伝落合丸側右袖の石垣は(写真5A)、間詰め石の少ない大型石横積みで、観音寺城前期のものです。
その斜面下に宮津口見付下の高石垣(写真6A・B)と、宮津口見付上部(伝落合丸)との間に何段かの石垣が築かれています(写真6C・D)。宮津口見付下石垣は、観音寺城後期の石垣です。観音寺城後期に、伝平井丸西辺や伝孫次郎邸石垣などが順次築かれたのでしょう。
なお、見付名称は、江戸時代の鳥瞰図にないことから、昭和40~50年代に吉田勝氏、田中政三氏が名付けたものだと思います(吉田 1970年、田中政三 1979年)。
帯曲輪と高石垣
伝三国間東側下の高石垣は、東西主稜線(大土塁)の北側にある長大な北帯曲輪の西端に築かれています。この帯曲輪は、ちょうど外郭ライン東端の大目付まで連続しています(写真7)。普請は甘いものの、かなりの土木量だったと思います。伝三国間東側下石垣と同時期、観音寺城後期の普請だと考えられます。
伝三国間東側下石垣には隣接して無名見付があります(動画3)。帯曲輪昇降用の虎口かとも考えましたが、そのために高石垣を築くとは考えられないので、やはり外郭虎口なのでしょう。
帯曲輪西端には、一部で竪堀ともいわれている谷地形がありますが、それが登城道なのかもしれません。
坊院A(伝進藤・後藤邸)前面の石垣も観音寺城後期に築かれたものです。伝進藤・後藤邸前面石垣は、坊院群前面を切り落として切岸と曲輪を普請し、その切岸に石垣を築いています。以前の投稿でもふれましたが(観音寺城(8))、本谷道の鋭角・直角の折れもこの段階に改修された可能性があると考えています。
伝進藤邸前の曲輪(伝的場)は枡形的空間にも見えます。
本谷道の見付は、江戸時代の鳥瞰絵図に「大門」の注記と本谷道をまたぐ石垣が描かれています。本谷も「見付谷」とも呼ばれていたようです。 また、本谷上部の櫓台的な石垣も虎口の可能性がありそうです。
本谷道ルートについては、さすがに大手道・表参道ということで、横矢も意識された実戦的な構造になっていると思います。しかし、権現見付に付属する権現見付北側上石垣など、高石垣の中には上部に曲輪をもたないものもあり、どうも視覚的効果(威嚇)を期待しているとしか思えません。現状がはたして最終型であったのか、観音寺城の戦略・戦術とは。。。今となっては何とも言いようがありません。
小結
観音寺城の投稿はここまで28回になってしまいました。他に投稿したいものがたまりにたまっているのでここで一区切りにします。
観音寺城(26)に要約もありますが、ここで全体の要旨を簡単にまとめて中締めにしておきます。
六角氏は、おおむね現在の滋賀県近江八幡市を範囲とする佐々木荘を「名字の地」(本貫地)とする宇多源氏佐々木氏の惣領家です。六角氏は一貫して佐々木荘内に拠点を置いていることから、先祖が開き相伝した「根本所領」(本貫地)に対する強いこだわりをもっていたと思います。
江戸時代になってから整備されたものですが、同族の京極氏も、始祖氏信以来の本拠である柏原(滋賀県米原市)の清瀧寺徳源院に始祖から代々の墓所を構えました。ともに、祖先崇拝・顕彰に対する強い意志を感じます。
繖山は古代からの山岳信仰の聖地であり、その後修験道の場となり、遅くとも11世紀には観音正寺(観音寺)が成立しました。
南北朝の争乱期など、中世前期にこうした山岳寺院を陣所にすることはごくごく一般的なことで、「観音寺城」もそうした一時的な軍事拠点から始まり、軍事利用の頻度が高まる中で整備が進められていったと考えられます。
観音寺城については、もう一つ近江国の特殊事情が背景にあったと思います。近江国では、比叡山延暦寺を頂点とする天台宗系寺院が大きな権威・権力をもっていました。永禄6年(1563年)に制定された分国法『六角氏式目』では、山門領(延暦寺領)のことを「山」(比叡山)と「国」(六角氏)が議定によって取り決めることとしています。この時期、延暦寺勢力も衰退しつつあったと思いますが、六角氏自らが、寺院勢力に対して絶対的な守護公権を行使できないことを認めています。
近江国の場合、地域支配は武家と寺院による多元的、重層的なもので、天台宗の有力寺院であった観音正寺との共存も、自然な流れであったのではと考えています。
六角定頼は、将軍義輝の就任式で本来管領が行うべき将軍加冠役を務めるなど、1540年代にはまさに「天下人」でした。
定頼は、永正15年(1518年)の代替わりから、京都にたびたび出陣するなど在京期間が長く、応仁・文明の乱以降、世情が安定しないこともあり、1520~1530年代に観音寺城を築きます。
しかし、定頼にとって観音寺城はあくまでも山上の守護所であり、一般的な山城、詰城といった認識ではなかったと思います。伝本丸などの発掘調査の状況が定頼時代にさかのぼるものかは不明ですが、主要部は礎石や水路など総石造りでした。
主殿と考えられる伝平井丸の門跡(虎口)は、私には、定頼が築いたとしか思えません。
義賢の代となり、優勢であった三好氏との勢力関係は逆転し、北近江では浅井氏が台頭します。
そうしたなか、外郭ラインの防備の強化が行われました。個々を見ると高さ7mを超えるような高石垣など、最先端の技術が駆使されています。
ただ、城郭として致命的なのは、繖山頂上側の南北主稜線がまったく無防備なことです。これは、中世奧之院が南北主稜線上にあったことによる宗教上の禁忌によると考えています。
こうした事態は、観音正寺との共存を選択した定頼にとって想定外のことだったかもしれません。
永禄6年(1563年)10月、義治が最有力の重臣であった後藤賢豊を観音寺城内で惨殺するという観音寺騒動が勃発します。この事件で山上の観音正寺は全焼し、本尊を石寺に下ろし仮本堂が営まれます。
永禄9年(1566年) には、浅井長政に六角領内への侵攻を許し、浅井氏との勢力関係も逆転してしまいます。
こうした状況は、観音寺城を本格的な城郭として改修するタイミングであったと思いますが、永禄6年以降の六角氏は、内紛と浅井氏との抗争によって衰退への道を転がり落ちていました。
永禄10年に制定された『六角氏式目』は、国内の混乱を鎮め、安定した体制の再構築を目的としていますが、これは重臣側が策定したもので、六角氏の権限を制限しています。承禎・義治父子が家臣団を統制し、観音寺城の大規模な改修を行うことのできる状況にはなかったと想像します。
浅井対策として強化すべき繖山主稜線北方は、南北5kmに及ぶ繖山山塊の北端に佐生日吉城(さようひよしじょう)(滋賀県東近江市)を築いただけで、結局無防備のまま廃城となってしまいました。
観音寺城は、「城郭寺院」ですが、寺院と武家が共存するといった他にはあまり例がないタイプです。
当時、最先端の技術・知識を保有していたのは比叡山延暦寺を代表格とする寺院勢力でした。観音寺城は、延暦寺と協調関係にあり、「天下人」に登り詰めようとしていた六角定頼が築いた城です。城郭としては中途半端であったとしても、防備が観音寺城に対する評価のすべてではないと思います。先進性といった部分での評価がもっと必要なのでは思っています。
近江八幡市には、観音寺城、安土城、八幡山城という天下人の三城があります。他地域では絶対に手に入れることができない「アイデンティティ」のはずなのですが、どうなんですか?近江八幡市さん。
参考文献は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。
2024年11月26日投稿