杉山城

 

埼玉県比企郡嵐山町
織豊系城郭成立期 (3)
杉山城
(1)  【杉山城 曲輪Ⅰ(本郭)から曲輪Ⅱ(南二の郭)東辺部塁線】

杉山城とは

埼玉県比企郡嵐山町の杉山城です。
杉山城は、公式サイトで「戦国期城郭の最高傑作の一つ」「築城の教科書」と称しているように、テクニカルな縄張りの城郭です。国指定史跡で、続日本100名城にも選ばれています。
杉山城を「織豊系城郭成立期」シリーズで取り上げる経緯は前々稿の通りです。中井均氏は、杉山城と賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が本陣とした玄蕃尾城(福井県敦賀市・滋賀県長浜市)の縄張りが類似することから、杉山城が小田原合戦で前田利家らによって築かれた「織豊系城郭」であるとしました(中井 2009年)。
最初に断っておきますが、私自身は杉山城を「織豊系城郭」と考えているわけではありません。

杉山城
(図1)  【杉山城 全体図】
背景図は、(村上伸二 2005年)からの引用。曲輪名を加筆させてもらいました。
杉山城
(図2)  【杉山城 虎口と導線】
虎口名は本投稿で付した任意の名称。

(図1)の「●●郭」は報告書(嵐山町教育委員会 2005年)、公式サイトの通りで、「曲輪●」「虎口●」は当方で付した任意の名称です。なお、報告書は入手できていないことから、発掘調査の内容などは、調査担当者である村上伸二氏の論考を参考にしました(村上 2025・2008年)。

【杉山城 駐車場】
埼玉県比企郡嵐山町杉山。
関越自動車道嵐山小川インターチェンジのすぐ近くです。
無料の駐車場があります。入山料も無料。続百名城スタンプは嵐山町役場にあるそうです。

杉山城の概要

杉山城は、荒川水系市野川左岸の丘陵上に立地します。主郭である曲輪Ⅰ(本郭)の標高は約95m、市野川流域平野部との比高差は約40mです。曲輪Ⅰ(本郭)を中心に南北東方向に曲輪群を配置しています。
城域と曲輪は、折れを多用した横堀によって区画されています。

(写真2~7)は、本郭(主郭)南側の曲輪群です。南側が大手と推定されています。
(写真2)の虎口Hは、導線正面を横堀・土塁で遮断した左折れの虎口です。正面の横堀(写真2(C))は現状それほど深くありません。

杉山城
(2)  【杉山城 虎口H(大手口)】
(A)左側曲輪Ⅺ(外郭)、正面上曲輪Ⅲ(南三の郭)、(B)虎口西側横堀、(C)虎口東側横堀。
杉山城
(3)  【杉山城 曲輪Ⅹ(馬出郭)・虎口G】
(A)曲輪Ⅺ(外郭)から全景、(B)曲輪Ⅲ(南三の郭)から虎口G・土橋、(C)曲輪Ⅹ(馬出郭)から虎口G・土橋。
赤破線は推定導線です。

虎口G(写真3)は、虎口受け(虎口前)に「馬出郭」と名付けられた小曲輪(曲輪Ⅹ)があります。この「馬出郭」には土塁がなく、虎口G左手(写真3(B)右手)は土塁(道)に連続しています。
曲輪Ⅹ(馬出郭)と手前の曲輪Ⅺ(外郭)は木橋によって連絡していたと推定されます。

杉山城
(4)  【杉山城 曲輪Ⅲ(南三の郭)南東部屏風折れ】
杉山城
(5)  【杉山城 曲輪Ⅲ(南三の郭)南西部屏風折れ】

この虎口Gの左右(曲輪Ⅲ(南三の郭))の塁線は、連続して屈曲する「屏風折れ」です(写真4・5)。杉山城のおもな特徴のひとつです。

杉山城
(6)  【杉山城 虎口E・曲輪Ⅱ(南二の郭)】
(A)虎口E、(B)虎口Eと東側横堀、(C)曲輪Ⅰ(本郭)から曲輪Ⅱ(南二の郭)全景。
杉山城
(7)  【杉山城 虎口D周辺】
(A)曲輪Ⅰ(本郭)から曲輪Ⅱ(南二の郭)虎口D側、(B)虎口D土橋、(C)虎口D東側土塁と後方の曲輪Ⅷ(井戸郭)。

(写真6)の虎口Eは、左右の横堀・土塁を食違いにした2折れの虎口です。
(写真6(C))は曲輪Ⅱ(南二の郭)全景です。外周の土塁は、虎口周辺以外高くはありません。
(写真7)は、虎口D周辺です。(写真7(A))は曲輪Ⅱ(南二の郭)で、見学コースは虎口Eから(写真7(A))左側(東側)へ向かい、(写真10)の土塁道を通って虎口Cから曲輪Ⅰ(本郭)へ入りますが、本来の導線は、曲輪Ⅱ(南二の郭) ⇒ 虎口D ⇒ 曲輪Ⅷ(井戸郭) ⇒ 虎口A(写真11) ⇒ 曲輪Ⅰ(本郭)になると思います。曲輪Ⅷ(井戸郭)は馬出的です。
(動画1)はそのあたりを理解しないまま撮ったので、曲輪Ⅱ(南二の郭) ⇒ 土塁道 ⇒ 虎口C ⇒ 曲輪Ⅰ(本郭)になっています。
(写真8)は、曲輪Ⅷ(井戸郭)下の曲輪Ⅸにある井戸とその周辺です。井戸は現状板石がかぶせてあります(写真7(B))。

杉山城
(8)  【杉山城 曲輪Ⅸ・井戸】
(A)曲輪Ⅰ(本郭)から、(B)井戸、(C)竪堀。
杉山城
(9)  【杉山城曲輪Ⅰ(本郭)南側切岸】

(写真1・9~12)は、本郭(主郭)周辺です。
(写真9)は、曲輪Ⅰ(本郭)南端の横堀と切岸です。

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(10)  【杉山城  曲輪Ⅰ(本郭)東辺部・虎口C】
(A)曲輪Ⅰ(本郭)東辺部塁線・横堀、(B)(C)虎口C。

(写真1・10)は、曲輪Ⅰ(本郭)東辺部と虎口Cです。虎口Cの基本となる導線は、おそらく曲輪Ⅵ(東二の郭)側です。曲輪Ⅱ(南二の郭)と曲輪Ⅰ(本郭)のメインとなる導線が外部から丸見えの土塁道(写真10(A))とは考えにくいと思います。
虎口C内側は多少低くなっていて、発掘調査で、ハの字状に内側に向かって開く石積みが発見されています。
(写真11)は、曲輪Ⅰ(本郭)全景と虎口Aです。虎口A両脇の土塁は、虎口B・Cよりも厚く高めです。虎口前は木橋だったと思います。

杉山城
(11)  【杉山城 曲輪Ⅰ(本郭)・虎口A】
(A)曲輪Ⅰ(本郭)全景、(B)曲輪Ⅷ(井戸郭)側から虎口A、(C)曲輪Ⅰ(本郭)側から虎口A。
杉山城
(12)  【杉山城 曲輪Ⅰ(本郭)北東張出部】

(写真12)は、曲輪Ⅰ(本郭)北東部の張出部です。横矢掛かりを意図したもので、櫓台かもしれません。

(写真13・14)は、本郭(主郭)東側の曲輪群です。

杉山城
(13)  【杉山城 曲輪Ⅵ・Ⅶ(東二・三の郭)】
(A)(B)曲輪Ⅵ・Ⅶ(東二・三の郭)全景、(C)曲輪Ⅶ(東三の郭)東端の塁線の折れ。
杉山城
(14)  【杉山城 曲輪Ⅵ(東二の郭)切岸・虎口K】

(写真13(A))の手前が曲輪Ⅵ(東二の郭)、奥が曲輪Ⅶ(東三の郭)です。
平面図的には同じような二連の曲輪ですが、曲輪Ⅵ(東二の郭)は周囲の切岸が高く、北側に分厚い土塁を築いているのに対して、曲輪Ⅶ(東三の郭)は東端の横堀も浅く(写真13(C))、曲輪Ⅵ(東二の郭)の付属的な曲輪にみえます。馬出的です。
曲輪Ⅶ(東三の郭)東端の塁線は折れをもちます(写真13(C))。
虎口K(写真14)は、単体でみると平虎口ですが、虎口Lからの導線では1折れになります。

杉山城
(15)  【杉山城 虎口J(搦手口)】
(B)前面横堀・土塁。

(写真15~17)は、本郭(主郭)北側の曲輪群です。搦手と推定されています。
曲輪Ⅳ(北二の郭)と曲輪Ⅳ(北二の郭)は、周囲の区画が不完全で、横堀・土塁は虎口を中心に築かれています。

杉山城
(16)  【杉山城 虎口 I】

(写真15)は虎口 J、(写真16)は虎口 I、(写真17)は本郭(主郭)の虎口 Bです。これらの虎口は、いずれも長方形の曲輪突出部を前面に築き、側面ないし側面奥に虎口開口部をもちます。前面の分厚い土塁や導線への側射など、突出部は堡塁としての役割をもっています。

杉山城
(17)  【杉山城 虎口B】
(B)前面横堀・土塁。
杉山城
(図3)  【杉山城 撮影位置図】

「杉山城問題」

杉山城は、かつて伊禮正雄氏が、後北条氏の城で築城年代については「天文から永禄末年までの約20年間のある時期」と推定し、これが通説となっていました。

・伊禮正雄「一つの謎杉山城址考」『埼玉史談』16巻3号 埼玉県郷土文化会 1969年
・伊禮正雄『関東合戦記』新人物往来社 1974年

しかし、2002年~2006年度に行われた発掘調査の結果、この通説とは異なる遺物が出土としたことから、築城年代をめぐる「杉山城問題」が勃発しました。「杉山城問題」は、2005年2月に開催されたシンポジウム「埼玉の戦国時代 検証比企の城」で、発掘調査結果が報告されたことに端を発するようです。シンポジウム成果は、『戦国の城』(埼玉県立歴史資料館編 高志書院 2005年)として刊行されています。

現状では、大きく分けて以下の4説が対立しています。このうち、通説がA説、発掘調査にもとづく新説がB説、その後に提起された新々説がC説とD説になります。

このうち、今回「織豊系城郭」として標的としているのは中井均氏のC説です。「杉山城問題」そのものについては、結論に至るような話にはならないと思うので深入りはしません。一応、概要と関連論文を記しておきます。関連論文を全部入手しているわけではないので、誤解があるかもしれません。

【A説】後北条氏(関係)築城説 16世紀後半

・西股総生「比企地方における城郭の個性」『戦国の城』埼玉県立歴史資料館編 高志書院 2005年
・西股総生「縄張研究における遺構認識と年代観」『戦国時代の城 遺跡の年代を考える』高志書院 2009年
・西股総生『杉山城の時代』角川選書592 2017年 
・西股総生「東国の城郭と織豊系城郭 杉山城と玄蕃尾城」『織豊系城郭とは何か その成果と課題』サンライズ出版 2017年

【B説】山内上杉氏(関係)築城説 15世紀末から16世紀前半

北条氏綱が、河越城周辺を領有する天文6年(1537年)以前。

・嵐山町教育委員会『埼玉県指定史跡 杉山城跡第1・2次発掘調査報告書』嵐山町埋蔵文化財発掘調査報告8 町内遺跡4 2005年
・村上伸二「杉山城跡」『戦国の城』埼玉県立歴史資料館編 高志書院 2005年
・村上伸二「発掘調査からみた杉山城跡」『後北条氏の城 合戦と支配 3館連携シンポジウム』博物館周辺文化財の複合的活用事業実行委員会 2008年
・竹井英文「戦国前期東国の戦争と城郭 「杉山城問題」に寄せて」『千葉史学』第51号 千葉歴史学会2007年
・齋藤慎一「戦国大名北条家と城館」『中世東国の世界3 戦国大名北条氏』高志書院 2008年
・竹井英文「縄張編年論に関する提言 その研究史整理と課題」『城郭史研究』第29号 日本城郭史学会 2009年
・竹井英文「その後の「杉山城問題」 諸説に接して」『千葉史学』第60号 千葉歴史学会 2012年
・竹井英文『杉山城問題と戦国期東国城郭』戎光祥城郭叢書3 2022年

【C説】豊臣方前田利家築城説 天正18年(1590年)小田原合戦

・中井均「検出遺構からみた城郭構造の年代観」『戦国時代の城 遺跡の年代を考える』高志書院 2009年
・中井均『秀吉と家臣団の城』角川選書654 2021年

【D説】後北条氏(関係)築城説 天正18年(1590年)小田原合戦

・中西義昌「中・近世城郭の構造分析と城郭跡の保存・整備 城館史料学の視点から」『日本歴史』第752号 吉川弘文館 2011年
・中西義昌「杉山城」『歴史読本』56巻5号(通号863) 新人物往来社 2011年
・木島孝之「城郭研究「縄張り研究」の独自性を如何に構築するか」『建築史学』第59号 建築史学会2012年

これ以外に、松岡進氏が、縄張り研究の立場から論考を発表されています。松岡氏は、杉山城の年代を明示していないと思います。

・松岡進「「杉山城問題」によせて」『戦国の城』埼玉県立歴史資料館編 高志書院 2005年
・松岡進「軍事施設としての中世城郭」『戦国時代の城 遺跡の年代を考える』高志書院 2009年
・松岡進「「杉山城問題」追考 竹井英文・齋藤慎一両氏の近業によせて」『城館史料学』第7号 城郭史科学会 2009年

過去、杉山城の築造年代については、A説が有力視されていましたが、2002年~2006年度に行われた発掘調査の結果、染付・白磁・青磁・褐釉などの輸入陶磁器、瀬戸美濃・常滑といった国産陶器、素焼きのかわらけ(土師質土器)などの陶磁器土器類が出土し、このうち製作年代が判明したものは、「15世紀末に近い後半から16世紀の第Ⅰ四半期におさまる前半」とのこと。一方、後北条氏時代の16世紀後半の遺物がまったく出土していないとしています。
また、曲輪Ⅰ(本郭)と曲輪Ⅵ(南二の郭)などでは、広範囲にわたる火災の痕跡が確認され、上記出土陶磁器土器類が火災痕にともなう状態で出土していること、そして、この火災以降は使用痕・生活痕が認められないことなどが明らかになったと報告しています(村上伸二 2005・2009年)。

これを受け、文献史学の竹井英文氏、齋藤慎一氏が、『戦国遺文 古河公方編』所収の「足利高基書状写」(山田吉令筆記所収家譜覚書)にある「椙山之陣」に注目しました。

椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言

九月五日 足利高基ノ由(花押) 毛呂土佐守殿

「椙山之陣」とは杉山城のことであり、毛呂土佐守に対し古河公方足利高基が
「杉山城以来、山内上杉憲房を援護してきたことを賞す」
いった内容になるようです。
両氏は、この「毛呂土佐守宛 足利高基書状写」の年代が、高基と憲房の生没年と当時の政治状況などから、永正9年(1512年)~大永4年(1524年)までの間に比定できるとし、発掘調査成果を文献史料から裏付けるものと考えました。

【B説】の疑問点

発掘調査結果とそれを裏付ける文献史料が揃うとB案は、他説に対して圧倒的に有利のように思えますが、いまだ「杉山城問題」は解決の気配がありません。
D案のように、北条氏関係城郭の到達点(最終型)とするような評価もあるように、B案の年代観と縄張り研究の折り合いがまったく付いていないのが最大要因ですが、B案そのものについてもさまざまな疑問点が指摘されています。

出土陶磁器類の年代については、あくまでも生産地での年代であって、消費地では長期間使用されることもあり、かならずしも遺跡・遺構の年代と一致しないこと。とくに日常的な生活跡ではない城郭のような遺跡では、想定される遺跡の年代と出土遺物の年代が一致しないことが多々あるようです。
しかし、これはB案に対する積極的な批判にはなりません。陶磁器が長期間使用されるとしても、16世紀後半代の陶磁器まったく出土していないのは、A案からみればやはり不自然です。調査者の村上伸二氏によると、使い捨てのからわけも陶磁器類の製作年代と合致しているとのことです。

ただ、「表土直下から」B案の年代にはない鉄砲玉が1点出土しています。村上氏はこれを近世の混在としていますが、これは出土状況に対して調査者の「判断」が介在する問題です。杉山城にともなうとすれば、おそらく永禄年間(1558年~1570年)あたりが上限になり、北条氏の時代と合致します。

個人的に気になっているのは、「かわらけ」が陶磁器土器類組成上の90%以上を占めていることと、村上氏が「臨時的な城」とする杉山城の性格です。
かわらけは、公的な「ハレ」の場で行われる饗宴などで使用される器です。一乗谷朝倉氏遺跡(福井県福井市)などを対照として、陶磁器土器類の組成から遺跡・遺構の性格を推定している小野正敏氏の集計をみると(小野 1997年)、杉山城の組成は当主居宅(守護所)である朝倉館と合致します。しかし、杉山城は居館といった性格の城ではなく、軍事的な拠点です。村上氏は、杉山城本郭は削平が甘く、本郭のほぼ半分の面積を調査したのにもかかわらず建物跡が確認されなかったことなどから、杉山城を「臨時的な城」と考えていますが、陶磁器土器類組成や、出土陶磁器に舶来の白磁・青磁などを含むことなど、「臨時的な城」の出土遺物としては違和感があります。
そもそも、調査所見に対する最大の疑問は、北条氏が活発に活動していた16世紀中ごろから後半にかけて、杉山城がまったく使用されていなかったということです。土塁も横堀も維持されたまま放置されていたのでしょうか。
発掘調査は、「事実」とともに、調査者の「判断」を多分に含んでいることを理解しておく必要があると思っています。

「椙山之陣」についても、中西義昌氏などから批判が寄せられています(中西 2014年)。中西氏によると「陣」を「城」とする解釈は誤読であり、「椙山之陣」の後に続く「以来」を含めると、「椙山での戦闘(戦い)」といった出来事として読むのが妥当であるとのこと。そうなると、

「杉山城以来、憲房を援護してきたことを賞す」
ではなく、
「杉山での戦闘(戦い)以来、憲房を援護してきたことを賞す」

となるとのこと。たしかにこの方が自然かもしれません。

また、「椙(杉)山」の地名は各地にあり、現嵐山町に比定する根拠はかならずしも十分に検証されていないとのこと。ある意味、「杉山城問題」を前提とした解釈ともとれます。

・中西義昌「「椙山之陣以来」にある「椙山之陣」は何を指すのか? 竹井英文氏「その後の「杉山城問題」」における批判に応える」『史学論叢』第44号別府大学史学研究会 2014年

【A説】の問題点

一方、通説のA説についても、確実な根拠があるわけではないと思います。

A説は、縄張り研究をもとにしていていますが、技巧的な杉山城の縄張りは、戦国期の城郭として完成型に近いと考えられること、杉山城にある角馬出や比企形(型)虎口の分布が北条氏の勢力圏とおおむね位置していることなどが根拠になっているようです。

縄張り編年も、同時代の文献史料に裏付けられた年代的に基準となる標式的な城郭が必要ですが、こうした史料は、地方へ行けば行くほど、時代がさかのぼればさかのぼるほど限られてしまいます。また、戦国時代の城郭の多くは、戦国期最終末まで改築を重ねている可能性があり、16世紀後半と推定される城郭は山ほどある一方で、例えば、16世紀前半(を最終型とする)、15世紀後半、15世紀前半の標準的となる城郭がはたして存在するのか。進化論的にみて、単純=「古い」、技巧的=「新しい」は一つの真理かもしれませんが、やはり裏付けが必要です。

杉山城が、発掘調査の所見通り、16世紀初頭前後に築城され、改築されることなく廃絶したとすると、年代が限定される非常に貴重な城郭資料ということになりますが、私の知る限り、城郭(縄張り)研究者でB説をとる方はひとりもいないようです。しかし、一方で、杉山城B案を否定する、16世紀初頭前後の明確な特徴や標式的な城郭を、城郭(縄張り)研究者側が描き切れているかというとそうは思えません。文献史側の竹井英文氏が、城郭(縄張り)研究者の遺構論を「感覚」的と切り捨ててしまうのも分かるような気もします(竹井 2012年)。

そもそも、縄張り編年という用語はよく見聞きしますが、千田嘉博氏の虎口編年(千田 1987・1989年など)はあるものの、縄張りなどの編年図表的なものを目にすることはほとんどありません。中井均氏などは、千田氏の虎口編年について「分類」ではあるものの、虎口に「編年」は存在しないといった身も蓋もないことを述べています(中井 2021年a序章)。

「杉山城問題」をみていると、城郭の年代というのは、簡単な問題ではないということがよく分かります。それぞれの城郭には、「築城」から「改築」そして「廃絶」といった歴史があり、その過程を遺構の現況から知ることは至難の業なのかもしれません。杉山城のようになまじ発掘調査をしない方が平和だったのかもしれませんが(^□^)、城郭研究にとっては、越えなければならない試練なのでしょう。

杉山城と玄蕃尾城

杉山城と玄蕃尾城を同類とした中井均氏のC案の問題点は前々稿の通りです。
中井氏は、杉山城と前回投稿した玄蕃尾城の縄張りが類似することから、杉山城が小田原合戦で豊臣方の前田利家らによって築かれたとしました(中井 2009年)。
類似点は以下の通り。

・土橋に対する横矢
・曲輪を巡る横堀
・馬出し
・急峻な切岸

しかし、これらは特徴としてあまりにも一般的で、杉山城と玄蕃尾城を同類として、他の城郭と区分することはできないと思います。中井氏に対する批判は西股総生氏が行っていて(西股 2017年)、くわしくはそちらを参照していただければと思いますが、以下、杉山城の特徴をまとめつつ、玄蕃尾城との比較を行ってみたいと思います。

塁線区画

【杉山城】
杉山城の城域・曲輪の区画は、「横堀」を基本としています。
丘陵や微高地に立地することの多い関東平野の城郭は、横堀を用いることが一般的で、杉山城でも、急傾斜となる西側斜面などをのぞくと横堀を巡らしています。土塁は曲輪全体ではなく、虎口周辺を中心としています。堀切もありません。
関東地方では、横堀の普及にともない、横矢掛けの塁線の折れも比較的早い段階から採用していた可能性が高いと思います。杉山城の曲輪Ⅲ(南三の郭)の塁線は、小刻みに屈曲させた屏風折れです。曲輪Ⅰ(本郭)の張出部も、横矢を意識したものと推定されます。

【玄蕃尾城】
玄蕃尾城では、「土塁」が基本で、土塁囲みの外を横堀ないし腰曲輪にしています。曲輪Ⅶ(北曲輪)の横堀と横堀外周の土塁などは杉山城と似ていますが、土塁囲みは、朝倉氏以来の近江・若狭地域の特色です。また、尾根部分については堀切を採用しています。
各曲輪の塁線に折れはなく、馬出を含む曲輪の組合せで横矢(側射)が掛かる構造になっています。

虎口と馬出

【杉山城】
杉山城の虎口は、曲輪Ⅰ(本曲輪)の虎口A(図5)と北郭の虎口B・J・I(図4)が特徴的で、長方形の突出部を曲輪前面に築き、突出部の側面ないし側面奥に虎口開口部をもちます(図4)。
これは、西股総生氏の提唱する「比企形(型)虎口」ないしその派生形です(西股 1999年)。

杉山城虎口模式図
(図4)  【杉山城 虎口模式図と導線】
杉山城馬出
(図5)  【杉山城 馬出と導線】

馬出については、虎口G前の曲輪Ⅹ(馬出郭)が角馬出とされていますが、馬出外周に土塁がなく、堡塁としての役割をもっていません。
虎口A前の曲輪Ⅷ(井戸郭)、虎口K前の曲輪Ⅶ(東三の郭)も馬出曲輪とみることができると思います。ただ、杉山城では、一般的な曲輪と馬出が未分化で、馬出が特化されていないように思えます。

【玄蕃尾城】
玄蕃尾城の虎口Dは、「比企形(型)虎口」(西股 1999年)と酷似しています。ただし、織豊系では「嘴状虎口」(村田修三 1985年)とされるものの一種で、両者の起源に直接的な関係はないと思います。
玄蕃尾城では、曲輪Ⅰ(主郭)周囲の虎口A・B・C前に馬出曲輪を備え、いずれも外周に土塁を築いています。このうち虎口C前の曲輪Ⅳは外部に対する出入り口がなく、これら馬出は、出撃曲輪というよりも、「堡塁(橋頭堡)」としての役割が重視されていると考えます。

杉山城と玄蕃尾城は、主郭を中心として曲輪群を配置していて、縄張り図をならべると一見似ているようにも見えます。
しかし、塁線は似て非なるもので、杉山城の横堀と玄蕃尾城の土塁囲みの出自は、それぞれの地域の中で理解が可能だと思います。

また、「比企形(型)虎口」についても、小倉城(埼玉県比企郡ときがわ町)や青山城(埼玉県小川町)など、杉山城周辺地域では数多くの類例があり、これらをすべて織豊系の影響として、天正18年(1590年)以降の改築とすることはありえないと思います。
「馬出」も、「角馬出」や「丸馬出」など各地に出自がありますが、近世城郭に至る織豊系城郭の馬出からみると、杉山城の馬出よりも玄蕃尾城の方が明らかに完成形に近いと思います。しかし、中井氏のC説では、杉山城が天正18年(1590年)築造、一方の玄蕃尾城の築城は天正10~11年(1582~1583年)で、年代的に逆転しています。

考え方そのものに問題があると思っていますが、このことについては、前々稿でまとめているのでここでは再説しません。

(動画1)  【杉山城 大手口ルートを歩く】
(動画2)  【杉山城 搦手口・東口ルートを歩く】

動画は2020年撮影で、この時はジンバルを使用したのですが、上下の動きが制御できず、カクカクしています。ご容赦ください。

参考文献は、「織豊系城郭成立期投稿一覧にまとめてあります。

杉山城2020年11月現地、2026年4月2日投稿。