織豊系城郭成立期 (4)
朝倉氏の城郭 (36)

織豊系城郭と朝倉氏
中山の付城(福井県三方郡美浜町)は、朝倉氏が若狭国守護武田氏(旧)重臣粟屋越中守勝久(勝長)の国吉城を攻めたときの陣城(付城)です。他に、狩倉山城(福井県美浜町)、駈倉山城(福井県美浜町)、金山城(福井県敦賀市)などがあります(図1)。
「付城(つけじろ)」とは攻撃拠点として築かれた陣城、向城(むかいじろ)のことで、『信長公記』などでも使用されている用語です。

カシミール3Dで作成。(大野康弘 2021年)掲載図を参考にさせてもらいました。
「織豊系城郭」とは、織田氏、豊臣氏と家臣団が築いた城郭として定義されていて、朝倉氏が築いたとされる中山の付城は、織豊系城郭ではありません。しかし、中山の付城などで朝倉氏が新たに採用した土塁囲みの城郭は、織豊系城郭に大きな影響を与えました。
織豊系城郭とは、石垣・礎石・瓦の一体化が指標とされていますが、一般的に織豊系城郭とされる特徴には、外枡形虎口や馬出、土塁・横堀の塁線とこれを屈曲させた横矢掛けの防御ラインなどがあります。
しかし、個々それぞれの特徴はかならずしも、織田氏、豊臣氏を起源とはしていません。ただ、どこが起源地なのかを特定することは簡単ではなさそうです。畝状空堀群についても、かつては越後や中国毛利氏などの起源説もあったようですが、現状での絞り込みは難しいようです。この時代の各勢力は、縄張りの独自性に対するこだわりよりも、それが戦術的に有効であればいち早く採用していったと考えられ、結果、畝状空堀群は九州から東北地方に至る広大な範囲に分布します。
一方、土塁+横堀による区画は、畝状空堀群とは範囲を変えて分布します。
千田嘉博氏によると、畿内・中部から関東にかけての太平洋側地域では、永禄期(1558年~)以降に横堀が出現し、横堀・土塁が「城道の限定や虎口、さらには枡形虎口や馬出などの進化を促すことになった」と評価しています(千田 1989年)。横堀・土塁区画の普及は、地形的な立地条件から、関東平野が先行する可能性が高いものの、それと畿内地方に直接的な関係があったとも思えず、横堀・土塁区画の起源も、地域を特定することは難しいと思われます。
しかし、元亀元年(1570年)4月から約3年間にわたって対峙した織田氏と朝倉氏の城郭(陣城)は、築城時期、築城主体が明らかで、直接対比することが可能です。そして、両者を比較すると、土塁囲み+腰曲輪(横堀)、虎口の複雑化は、朝倉方が明らかに先行しているように思えます。朝倉氏の陣城群に、織豊系城郭の外枡形虎口・馬出の完成型を見ることはできませんが、そこに至る過程に多大な影響を与えたと思われます。
このことは、村田修三氏らによって早くから指摘されています(村田 1989年・2017年)。村田氏は、朝倉氏の陣城群を「北国系」としています。
天正5年(1577年)の播磨国攻め以降の、平井山ノ上城(兵庫県三木市)、法界寺山ノ上城(兵庫県三木市)や太閤ヶ平(鳥取県鳥取市)で見ることができるひな壇状の駐屯地も、朝倉氏は、元亀元年(1570年)の「志賀の陣」の一乗寺山城(京都府京都市左京区)や一乗寺延暦寺山城(京都府京都市左京区・滋賀県大津市)ですでに採用しています。
今回のシリーズ「織豊系城郭成立期」は、朝倉氏と織田氏・豊臣(羽柴氏)の比較をひとつの軸と考えています。今回はその初回で、朝倉氏が築いた中山の付城を取り上げます。
掲載写真が多くなってしまったので、2回にわけて投稿します。

(大野康弘 2021年)から。加除あり。
国吉城合戦の付城
若狭国佐柿国吉城(福井県三方郡美浜町)の周辺には、朝倉勢と国吉城城主粟屋越中守勝久(勝長)の間で戦われた国吉城攻防戦で朝倉方が築いた陣城(付城)が残されています。
中山の付城などこれらの陣城群は、朝倉氏が、従来の「堀切+畝状空堀群」から「土塁囲み+腰曲輪(横堀)・複雑な虎口」へ、城造りを大きく変換させた最初期の城郭であると考えられてきました。このことについては、以前の投稿でもまとめています。

(A)本丸全景、(B)本丸北虎口、(C)本丸標柱(大正期)。

(A)(B)北西尾根曲輪群と切岸、(C)二ノ丸食違い虎口と土塁。
かつて応仁の乱では副将を務めた若狭国守護職の武田氏ですが、武田信豊・義統の代になると家督争いと有力被官の離反によって内乱状態となり、永禄4年(1561年)には義統の要請をうけ、朝倉氏は若狭に侵攻し、武田氏重臣逸見昌経らの反乱を鎮圧しました。朝倉氏はその後、縁戚関係にあった武田氏を傀儡化し、若狭国への影響力を強めていきました。それに対する武田氏家臣や国衆の反発もあり、朝倉氏は武田氏の保護を名目にたびたび介入します。
国吉城合戦は、武田氏から離叛し、朝倉氏と敵対した粟屋氏と朝倉氏の戦いとして伝えられています。
この戦いは、『国吉籠城記』(書名は多種あり)に描かれています。『国吉籠城記』によると、永禄6年(1563年)から永禄11年までの間、毎年秋に朝倉氏は若狭国三方郡への侵攻を繰り返しました。これに対して、国吉城主粟屋勝久のもとに結集した郡内の土豪や民衆がこれを撃退したと伝えています。結局、朝倉氏は国吉城を落とすことができず、「難攻不落」は国吉城のキャッチフレーズになっています。
『国吉籠城記』は、慶長9年(1604年)から元和3年(1617年)の間に成立したと推定されている軍記物で、少なくとも20本以上写本があり、そのほとんどは若狭で書写されたようです(河村昭一 2021年)。若狭の人々にとって誇らしい記憶なのでしょう。
合戦に参加した三方郡佐田の土豪田辺半太夫安次の日記をもとにしていると推定されていて、成立年代も比較的史実に近い時期であることから、ある程度信憑性のある史料と考えられています。
しかし、あくまでも軍記物であり、史実を含むとしても「物語」です。
史実としての真偽は、河村昭一氏が「『国吉籠城記』における朝倉軍の侵攻年次について」(河村 2021年)で検討されています。DLが可能なので、興味のある方は直接お読みください。
『国吉籠城記』の内容については、大野康弘氏の「粟屋越中守勝久と国吉籠城戦」(大野 2009年)を参考にしています。こちらもDLできます。

国吉城本丸から。
下の(表)は、若狭国吉城歴史資料館の展示パネルをもとに加除しています。
河村昭一氏の検討によると、『国吉籠城記』で戦いがあったとする永禄6年(1563年)から永禄11年までの間で、同時代史料から裏付けのとれる朝倉氏の若狭国侵攻は永禄11年(1568年)8月のみとのことです。ただこの時も、朝倉勢は小浜に進み、若狭守護職武田元明を越前に連行していることから、国吉城での攻城戦は、あったとしても牽制する程度だったと思われます。
永禄9年8月は、朝倉氏侵攻を直接裏付ける史料はないものの、武田義統に反発する家臣や国衆が義統の子、孫犬丸(元明)を奉じて挙兵しています。粟屋勝久は反乱軍の中心人物であったと考えられることから、朝倉氏が若狭国三方郡に侵攻した可能性は残るようです。
一方、永禄7年9月の朝倉勢主力は加賀に出兵していて、若狭攻めを率いる敦賀郡司朝倉景垙は、この時に陣中で一族の朝倉景鏡と争い自害しています。同時期に若狭攻めを行った可能性はなく、『国吉籠城記』が「創作」を含むことを証明しています。
いずれにしても、永禄6年(1563年)から永禄11年の間、粟屋勝久が常に反武田(反朝倉)であったわけではないとのことなので、永禄6年から5年間にわたる長期戦は考えにくいと思われます。
| 弘治2年 | 1556年 | 粟屋越中守勝久、佐柿の古城を利用して国吉城を築く。 | 籠城記 | ||
| 永禄4年 | 1561年 | 粟屋勝久、高浜の逸見駿河守昌経と結んで若狭守護職武田義統に叛く。武田氏の要請により、敦賀郡司朝倉景紀が若狭に侵攻。逸見昌経を破る。 | |||
| 永禄6年 | 1563年 | 9月 | 敦賀天筒城主朝倉太郎左衛門、国吉城を攻める。 | 籠城記 | △ |
| 永禄7年 | 1564年 | 9月 | 朝倉勢、山東郷を荒らし、国吉城を攻める。 朝倉勢、太田芳春寺山に中山の付城を築く。 | 籠城記 | × |
| 永禄8年 | 1565年 | 8月 | 朝倉勢、耳庄へ乱入。 9月、粟屋勢、中山の付城に夜襲をかける。朝倉勢撤退。 | 籠城記 | △ |
| 永禄9年 | 1566年 | 8月 | 朝倉勢、佐田駈倉山に付城を築く。 | 籠城記 | ○ |
| 永禄10年 | 1567年 | 8月 | 朝倉勢、駈倉山に拠り、山東郷を荒らす。 | 籠城記 | × |
| 永禄11年 | 1568年 | 8月 | 朝倉勢、小浜に進み、若狭守護職武田元明を越前に連行。 | 籠城記 | ○ |
| 元亀元年 | 1570年 | 4月 | 織田信長、京都を出陣し国吉城に入城。敦賀の金ヶ崎城、天筒山城を落とすが、浅井氏の離叛で撤退。粟屋勝久は織田方。 | ||
| 元亀元年 | 1570年 | 6月 | 姉川の戦い。浅井・朝倉勢敗れる。 | ||
| 元亀2年 | 1571年 | 9月 | 朝倉勢、三方郡侵攻。11月まで国吉城を攻める | ◎ | |
| 元亀4年 | 1573年 | 4月 | 朝倉勢、三方郡侵攻。国吉城を攻める。8月まで継続か。 | ◎ | |
| 天正元年 | 1573年 | 8月 | ※元亀4年7月28日、天正に改元。 13日、朝倉氏、刀根坂の戦いで織田勢に敗れる。同日中山の付城落城。 | ◎ | |
| 天正元年 | 1573年 | 8月 | 17日、一乗谷陥落。朝倉氏滅亡。 |
「籠城記」は『国吉籠城記』の記載にもとづくもの。
×△○◎は、(河村 2021年)をもとにした国吉城合戦の史実としての評価(私見)です。
河村氏の説に従うと、国吉城合戦の大半は「物語」のようにも思えてしまいますが、史実をもとにしていることも事実のようです。
ただ、時期的には、『国吉籠城記』が伝える永禄年間ではなく、元亀年間(1570年~1573年)の可能性が高いようです。元亀2年には、9月から11月にかけて朝倉勢は国吉城周辺に在陣しています。戦いが3か月にも及んだことは朝倉方の苦戦が推測されます。
この戦いは、複数の書状から証明できるようです。浅井長政が朝倉氏重臣に宛てた書状では、若狭に出兵することを聞いた長政が、朝倉義景に依頼した近江への出兵を反故されたことに不満を述べています。河村氏は、元亀2年の3か月にわたる朝倉勢との戦いが『国吉籠城記』のベースになっていた可能性を述べています。
なお、『福井県史』資料編2(福井県 1986年)では、河村氏があげた書状を元亀元年としていますが、河村氏はこれを否定しています。
天正5年(1577年)の奥書をもつ『越州軍記』によると、朝倉氏が滅亡する元亀4年(天正元年)の4月・8月にも国吉城攻城戦があったようで、『信長公記』には、信長が朝倉義景を破った刀根坂の戦いの天正元年(1573年)8月13日までに、織田勢が落とした朝倉方の城の中に、「若州栗屋越中所へとし向ひ候付城」があります。これは中山の付城と推定されています。
粟屋勝久は、元亀元年4月の信長による越前国侵攻、そして金ヶ崎の退き口以降も一貫して織田方に立ち、反朝倉を鮮明にしていました。近江に出陣する朝倉勢にとって、背後を取られる可能性のある勝久と国吉城の存在は大きな懸念材料となっていたと考えられます。
中山の付城などの陣城(付城)群は、勝久の動きを封じるための備えとして元亀年間に築かれた可能性が高いように思われます。『国吉籠城記』にある毎年(旧暦)8~9月の侵攻は、事実であったにしても青田刈りのような嫌がらせであり、陣城を構えるような長期戦を想定した戦い方ではありません。そうなると、本格的な国吉城合戦、そして付城の構築は元亀年間が有力で、朝倉軍は、天正元年8月まで兵を常駐させていたことも考えられます。
ただし、当初の築城時期が永禄年間にさかのぼる可能性も否定はできません。
国吉城について
国吉城は、弘治2年(1556年)に粟屋越中守勝久によって築城されたと伝わります。その後、天正11年(1583年)に秀吉の家臣木村常陸介定光が城主となり、国吉城を石垣造りの城に改修したほか、城下町の整備を行いました。今回深掘りはしませんが、まさに織豊系城郭です。
その後、丹羽長重、浅野長吉(長政)、木下勝俊が入部し、国吉城には城代がおかれました。関ヶ原の戦いの後には京極高次が若狭一国の領主となり、高次の時代のうちに廃城になったようです。
各尾根に配置された段状の曲輪群や、主郭南側の堀切などの縄張りは、粟屋勝久時代の特徴を残していると思いますが、詳細は不明。
主郭のある城山の標高は196.9m。若狭国吉城歴史資料館からの比高差は約155mです。
資料館駐車場から奥(東)に進むと、粟屋勝久の墓所ある徳賞寺があります(写真5)。

(A)墓所、(B)(C)徳賞寺。

【若狭国吉城歴史資料館】
福井県三方郡美浜町佐柿25-2。
国吉城を専門に扱った資料館です。
月曜定休日、入館料大人100円。無料駐車場があります。
中山の付城 概要
中山の付城は、『信長公記』にある「若州栗屋越中所へとし向ひ候付城」、『越州軍記』にある「沙木(佐柿)の城の北にある中山と云処に城を構て」のことと推定されます。『国吉籠城記』にも、永禄7年の侵攻時に朝倉軍が構築した付城として「芳春寺上、中ノ山」、「宝春寺の上、中山」、「宝春寺山」などとして登場するようです(河村 2021年)。

東側から。頂上に中山の付城、正面中央の山ろくに芳春寺。
中山の付城は、標高145.3mの芳春寺山山頂付近にある小規模な山城ですが(写真7)、東側山麓にある芳春寺(ほうしゅんじ)(写真8)に朝倉氏が本陣を構えていたとのことなので(福井県 1994年)、この周辺が朝倉軍の拠点となっていたようです。


南側から時計回りに歩きました。背景図はカシミール3Dで作成。

(A)(B)本堂左側の山道を登る、(C)途中の防獣柵、(D)山道の行き止まりから左側斜面を直登。
登城は芳春寺の駐車場を利用させてもらいました。現地に解説板やルートの案内は一切ありません。
ルートは、芳春寺の正面左側の近年開かれたであろう山道を登っていきます(写真9(A))。すぐに左に鋭角に折れ(写真9(B))、防獣柵を越え(写真9(C))、山道の行き止まり付近(写真9(C))から直登します。そこそこの急登ですが、手掛かりになる木がまばらで登りにくかった記憶があります。尾根まで登ったら、尾根筋に沿って登ります。中山の付城は頂上周辺にあります。
下山は北東側の尾根から降りました。急ですが歩きやすい尾根です。芳春寺裏側の防獣柵まで来たら、フェンスに沿って左手に進みますが、そこの30~40mが大藪です。フェンスの出入り口はここです。
芳春寺駐車場からの中山の付城主郭までの比高差は約100mです。 遺構の詳細は次回。
【芳春寺】
福井県三方郡美浜町佐田106-8。
中山の付城の登城口です。参拝者用駐車場をお借りしました。
参考文献は、「織豊系城郭成立期投稿一覧」にまとめてあります。
2024年12月現地、2026年4月21日投稿。
