織豊系城郭成立期 (5)
朝倉氏の城郭 (37)

(A)東堀切、(B)(C)東堀切上部。
中山の付城 遺構
中山の付城(福井県三方郡美浜町)、2回目(最終回)です。
前回は、国吉城合戦、中山の付城の概要、登城ルートについて投稿しています。
今回は、遺構の紹介です。

(佐伯哲也 2021年)から。曲輪名等は加除させてもらいました。赤破線は導線です。
(写真1(A))は、主稜線東尾根の堀切です。尾根の鞍部にあります。
そこから上部はなかなかの急登です(写真1(B)(C))。あまり歩かれている様子はありませんが、昇降補助のトラロープが張られていました。
(写真2)は、東曲輪東端の切岸です。現状高は2m程度でしょうか。東端の切岸東下には横堀らしき痕跡があり、佐伯哲也氏の縄張り図(図1)では中央に土橋が描かれています。(写真2(A))の中央付近です。(動画)の方が分かりやすいかもしれませんが、虎口にともなうものとは思えませんでした。

(A)正面、(B)南辺側、(C)北辺側。
(写真3・4)は、東曲輪内部です。削平は甘くほぼ地形の傾斜のままです。周囲の土塁は断続的に全周していますが、国吉城側の南辺の方が高く明瞭です(写真3(B)・4(A))。南辺の土塁が切れたところは虎口かもしれせんが、はっきりしません。状況は(動画)をご覧下さい。
東曲輪の前面(東側)(写真4(B))から南辺側外周(写真2(B)・4(C))は帯(腰)曲輪状ですが、北辺部は切岸からそのまま斜面になっています(写真2(C))。
主郭の両側にある東曲輪と北曲輪は、ともに平面形が撥(ばち)形(長台形)です。主郭との接合部に「くびれ」をつけることで横矢が掛かる構造にしているのかもしれません。

(A)東曲輪内部から主郭側、(B)東曲輪南辺土塁、(C)東曲輪北辺土塁。

(A)東曲輪全景主郭側から、(B)東曲輪東端から城外側、(C)東曲輪南辺切岸。

(A)北側土塁から、(B)南側土塁から、(C)虎口前通路。
(写真5)は、東虎口です。1折れの坂虎口で、虎口前の通路(城道)は上部から横矢が掛かる構造になっています。西虎口ほどはっきりしていませんが、虎口両側の土塁は若干食違いになっていて、ルートの折れはやや鈍角になります。
(写真6~8)は、主郭です。(写真6)は主郭北側東辺土塁から、(写真7)は主郭北側西辺土塁から、(写真8)は主郭南側です。
(写真8(B))は、主郭南端部で、土塁幅が広くなっています。

(A)主郭北側全景、(B)東辺土塁切岸、(C)東辺土塁。


(A)主郭南側全景、(B)主郭南端の土塁幅が広くなる部分、(C)西辺土塁。

(写真8(A))の中央、(写真8(C))の左端に(写真9)の標柱が写っています。
主郭内部は、東・北曲輪のような傾斜こそありませんが普請は甘めです。これは朝倉方の陣城に共通する特徴です。

(A)南側土塁から、(B)北側土塁から、(C)虎口前通路。
(写真10)は、西虎口です。1折れの坂虎口で、虎口前の通路は長く、上部から横矢が掛かる構造になっています。虎口両側の土塁は若干食違いになっています。ルートの折れはやや鈍角で、虎口(門)は通路に対して直角ではなくやや正対します。
(写真11)は、南堀切です。南側の尾根をたどると国吉城直下に至ります。

(B)主郭土塁から。

(写真12)は、西虎口の通路下あたり、主郭北西部切岸です。腰(帯)曲輪状の平坦面が広がっていますが、横堀は認められません。
(写真13・14)は、北虎口とその周辺です。北虎口単体ではただの平虎口ですが、(写真13(C))の虎口前の凹地を城外からの通路とすると1折れの虎口ということになります。

(A)東側土塁から、(B)主郭虎口付近土塁上から北曲輪側、(C)城外に続く凹地。

(A)北虎口西側土塁から、(B)北曲輪東辺土塁、(C)北曲輪から北虎口。
(写真14・15)は、北曲輪です。(写真14(B))は北曲輪東辺の土塁、(写真14(C))は北曲輪から北虎口を見ています。かなり傾斜しています。
(写真15(A))は、北曲輪北半部でやや凹地になっています。(写真15(B))は北曲輪北端から城外、(写真15(C))は城外から見た北曲輪北端の切岸です。

(A)北曲輪北半部、(B)北曲輪北端から城外側、(C)北曲輪切岸。

(A)北堀切、(B)(C)北尾根。
(写真16(A))は、北堀切です。両側が竪堀になっています。(写真15(B)(C))は、北側の尾根です。(大野康弘 2021年)によると、階段状の小曲輪が連続しているとのことですが、よく分かりませんでした。

背景図は(佐伯哲也 2021年)から。
中山の付城 構造と年代
中山の付城は、(永禄年間後半から)元亀年間に朝倉氏が新たに採用した土塁囲みの城郭です。東・西の虎口は、1折れの比較的単純な構造ですが、虎口前に長い通路があり、上部からの横矢の掛かる構造になっています。
南・北の曲輪は、外枡形・馬出に通じる虎口前の「堡塁」としてみることができるかもしれません。
(図3)は、国吉城合戦関係の陣城の虎口をまとめたものです。定型化はしていませんが、折れや虎口受けに工夫がみられます。

中山の付城の年代については、『信長公記』の記述から、天正元年(1573年)8月13日に落城(廃城)したことはほぼ動かないと思います。
しかし、築城年代については確定できていません。佐伯哲也氏は『国吉籠城記』の記述に従い永禄7年(1564年)を想定していますが(佐伯 2021年)、高田博氏は、永禄6年~天正元年の間として判断を避けています(高田 2013年)。
しかし、前稿でまとめたように、長期戦を想定したような陣城(付城)群の構築は、『国吉籠城記』にある永禄年間の戦い方とはなじみません。元亀元年4月の信長による越前国侵攻以降、織田方に属し反朝倉を明確にした粟屋勝久に対する備えと考えた方が自然だと思います。
国吉城合戦の陣城は、『国吉籠城記』から近江側の陣城に対して先行する可能性も考えていましたが、元亀元年(1570年)築城の陣城には、須山川砦(滋賀県米原市)、上平寺城(滋賀県米原市)、一乗寺山城(京都府京都市左京区)など土塁囲みと畝状空堀群が併用されているものがあります。これらが朝倉氏としては最初期の土塁囲みの城砦で、現状の中山の付城については、やはり元亀年間のものと考えるべきかもしれないと思っています。
なお、土塁囲みは、一乗谷城(福井県福井市)など堀切と畝状空堀群を主な防御施設とするそれ以前の城郭とはまったく関連性がないようにも思えますが、新期(2期)の一乗谷城は、曲輪直下を削って角度のある切岸面を造り出し、切岸直下の緩斜面(腰曲輪)に畝状空堀群を築いています。畝状空堀群と土塁の有無に違いはありますが、元亀年間の土塁囲み+腰曲輪(横堀)と工法上の共通性はあるようにも思えます。元亀元年に築かれた志賀の陣の一乗寺山城では、腰曲輪をピッチの短い畝状空堀群で刻んでいます。朝倉氏の城郭の「二様」を繋ぐものではないかと考えています。
参考文献は、「織豊系城郭成立期投稿一覧」にまとめてあります。
2024年12月現地、2026年4月22日投稿。
