虎御前山城 (4)

 

伝織田信長本陣跡・伝堀秀政陣跡・伝佐久間信盛陣跡(大洞谷)
織豊系城郭成立期 (9)
伝織田信長本陣跡標柱
(1)  【伝織田信長本陣跡 主曲輪標柱】

虎御前山城概要

前回までの要約です。

虎御前山城(砦)は、小谷城攻防戦の織田方の陣城(向城)です。『信長公記』によると、元亀3年(1572年)7月27日から8月8日の間に築かれました。
虎御前山の陣城群は、南端の八相山を含め丘陵全域に及んでいたと考えられています。信長が上杉謙信に宛てた書状では、「虎御前山と申ニ、地利三ヶ所申付候」とあり、これは虎御前山に砦(地利)3か所を築いたと解されます(高田徹 2013年)。おそらく、これは、伝木下秀吉陣跡+伝柴田勝家陣跡、伝織田信長本陣跡+伝佐久間信盛陣跡、伝堀秀政陣跡ではないかと推定します。これに南端部の八相山砦を加え、あとは未整備のまま駐屯地として利用したのではないかと考えます。
今回は、伝織田信長本陣跡・伝堀秀政陣跡・伝佐久間信盛陣跡です。陣跡名は、江戸時代に描かれた絵図にもとづくもので、同時代の根拠史料はありません。ただ、信長本陣跡東側大洞谷尾根部の入念な普請から判断すると、信長本陣跡が虎御前山城の中心的な陣所であった可能性は高いと思われます。
大洞谷の遺構群は、一部が伝佐久間信盛陣跡として知られてはいましたが、大洞谷南北尾根全体に土塁などが築かれていたことは、近年になって確認されました。

虎御前山城トラックデータ
(図1)  【虎御前山城GPSトラックデータ】
青線:2024年12月、赤線:2025年11月、背景図はカシミール3Dから作成しました。

虎御前山城は、2024年12月に登ってきました。大洞谷尾根部についても行くつもりだったのですが、この時は夕方近くになってしまったために断念し、この部分については2025年11月に再登しました(図1)。ただ、2025年は天気が良すぎてしまい、暑い上に写真を撮ってもイマイチ。そもそも藪で奥行きが見通せない上に普請は甘く、写真は影のコントラストがキツて、どこの何を撮ったのか分からない写真だらけになってしまいました。
ただ、尾根の降下は、藪といっても季節さえ選べばさほど難しいコースではありません。

伝織田信長本陣跡・伝堀秀政陣跡・伝佐久間信盛陣跡(大洞谷)図
(図2)  【虎御前山城 伝織田信長本陣跡・伝堀秀政陣跡・伝佐久間信盛陣跡(大洞谷)】
高橋成計氏作図、キャプション追加、図一部加除。(高橋 2018年)から。

陣跡群の遺構

伝堀秀政陣跡

虎御前山の南側から歩くと、伝滝川一益陣跡の電波塔と古墳群の先、尾根の鞍部に堀切1が現れます(写真3(A))。ここからが本格的な城域になります

伝堀秀政陣跡標柱
(2)  【伝堀秀政陣跡 主曲輪標柱】
伝堀秀政陣跡南曲輪
(3)  【伝堀秀政陣跡 南曲輪】
(A)堀切1、(B)南から、(C)北から、手前堀切2。

堀切1からさらに小円墳が数基あり、その先が伝堀秀政陣跡南曲輪です(写真3(B))。

伝堀秀政陣跡は、大きく南曲輪と主曲輪に分けることができます。おそらく複数基の古墳とその周溝を利用したと推定され、3本の堀切(堀切2/写真3(C))、(堀切3/写真4(A))、(堀切4/写真5・6(A))と小曲輪(一部は土塁状)が連続します。堀切のうち堀切3は、主曲輪西側に回り込んで横堀状になる部分と、竪堀となる部分に分岐しています。横堀は、(図2)には表現されていません。

伝堀秀政陣跡主曲輪礎石建物
(4)  【伝堀秀政陣跡 主曲輪南側】
(A)南から、手前堀切3(横堀状)、(B)礎石建物(復元)、(C)手前礎石建物(復元)、奥南曲輪。

主曲輪南端の小曲輪には礎石建物があり、その基礎部分が復元されています(写真4)。

ただ、この部分を含め、曲輪はいずれも狭く、居住エリアとしての使い勝手は良くなかったと思います。見張り台だとすると陣跡そのものの場所が中途半端で、搦手側(南側)の見張りであれば、伝滝川一益陣跡周辺が適当だと思います。

伝堀秀政陣跡主曲輪南側
(5)  【伝堀秀政陣跡 主曲輪南側】
手前堀切4。
伝堀秀政陣跡主曲輪
(6)  【伝堀秀政陣跡 主曲輪】
(A)南から、手前堀切4、(B)主曲輪から北方向、(C)北から。
伝織田信長本陣跡

伝織田信長本陣跡は、きわめて単純な縄張りです。主曲輪(写真1・11)を中心に、北側1段(北曲輪/写真12(A))、南側4段(南1曲輪/写真10)、(南2曲輪/写真8(C)・9)、(南3・4曲輪/写真7・8(A)(B))の曲輪を連郭式に築き、東側には帯(腰)曲輪(写真13(A))を設けています。各曲輪間に堀切はなく、土塁も築かれていません。遮断施設は切岸のみです。

伝織田信長本陣跡南4~2曲輪
(7)  【伝織田信長本陣跡 南4~2曲輪】
南から。
伝織田信長本陣跡南3・2曲輪
(8)  【伝織田信長本陣跡 南3・2曲輪】
(A)南3曲輪、奥南2曲輪、(B)南2曲輪から南、(C)南2曲輪、奥南1曲輪。
伝織田信長本陣跡南2曲輪
(9)  【伝織田信長本陣跡 南2曲輪】
南1曲輪から。

各曲輪群は一体的ですが、通路・虎口ははっきりしません。主曲輪の虎口については、「長枡形虎口」の標識が立てられ、中井均氏(中井 2020年他)、高橋成計氏(高橋 2018年)らはこれを伝織田信長本陣跡の特徴の一つとして記述しています(写真11)。(図3)は現地の復元イラスト図です。
現状は、主曲輪南側が若干凹んでいて、これを枡形としてルートがつけられているのですが、他曲輪に明確な虎口がないこともあり、枡形虎口どころか虎口としてどの程度確証があるものか判断できません。
現状ルートは、動画を見ていただくと分かりやすいと思います

伝織田信長本陣跡南1曲輪・主曲輪
(10)  【伝織田信長本陣跡 南1曲輪・主曲輪】
南1曲輪から。
伝織田信長本陣跡長枡形虎口
(11)  【伝織田信長本陣跡 主郭長枡形虎口】
伝織田信長本陣跡推定復元図
(図3)  【虎御前山城 伝織田信長本陣跡復元イラスト図】
長谷川博美氏作成、現地掲示図をもとに加筆しました。
伝織田信長本陣跡主曲輪・北曲輪
(12)  【伝織田信長本陣跡 主曲輪・北曲輪】
(A)北曲輪から主曲輪、(B)主曲輪から北、(C)北曲輪北(信長馬場)。

伝織田信長本陣跡は、伝堀秀政陣跡や伝木下秀吉陣跡と比べて曲輪は広く、居住スペースとして築かれたと考えられます。後述する東側の大洞谷尾根部の入念な普請からみても、伝織田信長本陣跡が虎御前山城の中心的な陣所であったことは間違いないのではと思います。
「虎御前山城(1)」でも紹介しましたが、『信長公記』によると、虎御前山城には「御座敷」があり、周辺地域が一望できたとのことですが、伝織田信長本陣跡主曲輪は、虎御前山山頂の伝木下秀吉陣跡主曲輪とほぼ同じ標高があり、ここに「御座敷」があった可能性は高いと思われます。
信長や重臣らが、絵図の通りそれぞれ陣所を構えていたかどうかは不明で、伝織田信長本陣跡エリアにまとまっていた可能性もありそうです。虎御前山城の築城を開始した元亀3年(1572年)7月末から信長が退出した9月半ばまでの戦況は、織田軍の圧倒的優位のもと膠着していたようで、諸将が常時臨戦態勢にあったわけではないと思います。
合戦図や城址図に有名武将を多数配置したがるのは、江戸時代の絵図にはありがちなことです。
(写真12(C))は、伝織田信長本陣跡と伝木下秀吉陣跡の間で、「信長馬場」と呼ばれている平坦地が広がっています。こうした場所が兵の駐屯地であったと思われます。

なお、伝織田信長本陣跡周辺は。現状非常にきれいな平坦地ですが、きれいすぎて、いつどのような整備工事が行われたのか、少々疑問を感じました。

伝佐久間信盛陣跡(大洞谷)

伝織田信長本陣跡東側の尾根及び谷部です。「大洞谷」の名称は絵図にあります。
従来、大洞谷北尾根上部が伝佐久間信盛陣跡とされていました。近年、大洞谷尾根部全体に土塁などが築かれていたことが明らかになり、いくつかの縄張り図が作成されています。
(写真13)は、伝織田信長本陣跡東側直下で、大洞谷上部へは(写真13(A))の腰曲輪最下段から(写真13(B))に向かいます。その先の(写真13(C))は虎口かもしれません。

大洞谷上部入口付近
(13)  【大洞谷上部(伝佐久間信盛陣跡)】
(A)大洞谷上部入口付近から伝織田信長本陣跡主曲輪、(B)大洞谷上部通路、(C)大洞谷上部通路土塁。
大洞谷上部曲輪
(14)  【大洞谷最上部曲輪】
(A)最上部曲輪、(B)(C)南辺部土塁。

(写真14)は、(写真13(C)直下の曲輪で、(写真14(A))左側が通路になっています。尾根南辺部には土塁がつづいています(写真14(B)(C))。
(写真15)は、大洞谷北尾根上部の伝佐久間信盛陣跡で、普請の甘い曲輪群が段状に連続していて、その南辺部谷側は通路状になっています(写真15(B)(C))。(写真14(A))は尾根北辺部で、部分的に土塁が築かれています。さらにその外側には腰曲輪ないし横堀があるのですが、なかなかの激藪でした。北尾根は、尾根下部の竪土塁が始まる場所あたりまで降って引き返しました。

大洞谷北尾根
(15)  【大洞谷北尾根(伝佐久間信盛陣跡)】
(A)北辺部土塁、(B)(C)尾根南側の通路。

大洞谷南尾根上部は緩斜面の平坦地が続きます。北尾根と同じように、尾根北辺部谷側は通路状になっています。平坦地下部尾根南辺部では土塁が認められます。北尾根のような段状の曲輪群ははっきりしません。

大洞谷南尾根土塁
(16)  【大洞谷南尾根竪土塁】

(写真16~18(A)(B))は、大洞谷南尾根下部の竪土塁です。高さはそれほどでもありませんが、幅広の土塁が確実に築かれています。基本は尾根の南側縁辺ですが、中央寄りの場合もあります。
(写真18(A)(B))は、竪土塁南端部の折れです。
(写真18(C))の大洞谷の谷口です。両側から尾根(土塁)が迫り、虎口状になっています。

大洞谷南尾根土塁
(17)  【大洞谷南尾根竪土塁】
大洞谷南尾根土塁と谷口
(18)  【大洞谷南尾根南端付近】
(A)(B)竪土塁屈曲部、(C)大洞谷口。

こうした尾根全体を防塁とする事例は、賤ヶ岳合戦の菖蒲谷砦(滋賀県長浜市)にあります。発想として引き継がれた可能性があります。ただし、菖蒲谷砦は、東野山城と堂木山砦を結ぶ秀吉側の防衛ラインの一部として築かれています。これに対して虎御前山城大洞谷の築造目的ははっきりしません。
派生する尾根の中で、大洞谷のみを大掛かりに整備したのは、丘陵の上下をつなぐ通路の存在を予測させます。高橋成計氏作図の(図2)は、谷中央部に登城道を描いていますが、今のところ登城道を想定しているのは高橋氏の縄張り図のみです。
今回、この登城道も確認したかったのですが、谷中央部は激藪で立ち入ることができませんでした。

「虎御前山城(1)」で紹介しましたが、信長は、虎御前山城の築城と同時に横山城からの軍道を整備しています。軍道の途中に築かれた八相山砦と宮部砦の位置関係からすると、兵站ルートは虎御前山南端(八相山砦)から虎御前山の主尾根伝いと考えられ、大洞谷は通常の出入り口にはならなそうです。
今現在、谷中央部の登城道について私個人としては未確認ですが、大洞谷を「突撃口」とする高橋成計氏の考えが理屈に合っているように思います。そうなると、大洞谷上部の曲輪群は、小谷城前面のエリア以外では最大の駐屯地で、その上部にある伝織田信長本陣跡はやはり中心的な陣所ということになるのではないかと思います。

伝織田信長本陣跡・伝堀秀政陣跡・伝佐久間信盛陣跡(大洞谷)撮影位置図
(図4)  【虎御前山城 伝織田信長本陣跡・伝堀秀政陣跡・伝佐久間信盛陣跡(大洞谷)撮影位置図】
高橋成計氏作図、図一部加除。(高橋 2018年)から

虎御前山城は先進的か

何をもって先進的とするか、ですが、本シリーズでは、織豊系城郭から近世城郭に連続進化する、土塁(石塁)囲みと横堀(腰曲輪)、その採用にもとづく虎口の複雑化、塁線の折れ(横矢掛け)を指標としています。
「虎御前山城(3)」で紹介しましたが、中井均氏は伝木下秀吉陣跡の翳堀をともなう主郭虎口などをもって秀吉陣跡を「極めて複雑な構造」としています(中井 2020年)。ただ、かならずしも技巧的=先進的ではありません。伝木下秀吉陣跡の南虎口の土塁囲みの通路も独創的ですが、これらはここでの先進性にはあたりません。

千田嘉博氏は「個々の曲輪が機能を分担する(例えば馬出し)して防御する高次な縄張りを実現するには横堀が不可欠」であり、横堀や土塁が城道の限定や虎口、さらには枡形虎口や馬出などの進化を促すことになったとしています(千田 1989年)。比企形虎口と角馬出に代表される関東地方、甲斐武田氏の両袖枡形虎口と丸馬出、朝倉氏の虎口などは土塁・横堀と一体的です。
これに対して、虎御前山城主要部の土塁囲みは伝木下秀吉陣跡主曲輪中段のみです。伝木下秀吉陣跡東曲輪の土塁+腰曲輪(横堀)は、城郭の曲輪囲いというよりも野戦の防塁だと思います。
虎御前山城の先進性として指摘されることの多い伝織田信長本陣跡主曲輪の「長枡形虎口」についても、現状はただの凹地で土塁区画をともないません。区画施設には、土塁以外に柵などもあるとは思いますが、この長枡形虎口について、その後の織豊系城郭の枡形虎口に系譜を連なるものかどうか。そもそも、この長枡形虎口や伝木下秀吉陣跡の翳堀の虎口が現状のルート通りで、中井氏らの解説の通りなのか、どこまで根拠があるのか疑問が残ります。発掘調査は行われていないと思います。

虎御前山城主要部全体図
(図5)  【虎御前山城主要部】
高橋成計氏作図、キャプション追加、図一部加除。(高橋 2018年)から。

虎御前山城は、段状の曲輪群を縄張りの基本としています。尾根を切断する堀切は、伝木下秀吉陣跡の北西外虎口の二重堀切と伝堀秀政陣跡の堀切1・3だけで、これらの堀切も小規模です。大洞谷尾根部も堀切を用いていません。この点は中世的な山城とは一線を画しています。しかし、戦国末期の山城にみられる土塁の採用とこれにともなう曲輪間の虎口と通路は未発達です。切岸を基本とする区画には横矢折れも認められません。虎御前山城は、元亀年間(1570年~1573年)の標式的な織豊系城郭のはずですが、これが実態です。

対峙する朝倉氏が、元亀年間にいち早く土塁囲み+腰曲輪(横堀)を採用し、これにもとづく虎口の複雑化や横矢掛けの塁線を指向したことに比べると、この時期の織田氏の城郭はけっして先進的とはいえないと思います。
これは、圧倒的な勢力差を背景とした攻め手側と受け手側の城造りの違いかもしれません。
結果、織豊系城郭は、さまざまな技術と設計思想を集約して最先端の城郭を完成させますが、先進性の起源がかならずしも織豊系城郭(織田・豊臣氏とその家臣団)とは限らないということだと思います。

(動画)  【伝織田信長本陣跡・堀秀政陣跡・佐久間信盛陣跡(大洞谷)】

虎御前山城、終わりです。

参考文献は、「織豊系城郭成立期投稿一覧にまとめてあります。

2024年12月、2025年11月(虎御前山城)現地、2026年7月1日投稿。