浅井長政 墓

 

小谷城大広間サクラ
【小谷城本丸】
2017年4月撮影。

浅井長政

浅井長政(あざいながまさ)(1545~1573年)の継室お市の方は信長の妹。
元亀元年(1570年)、信長との同盟関係を絶ち敵対します。
天正元年9月1日(1573年9月26日)、小谷城内赤尾屋敷にて自害しました。享年29。
8月27日に自害した父浅井久政とともに長政の首は京都に送られ、獄門に掛けられます。以下は『信長公記』天正2年の記事です。

正月一日、京都および近隣諸国の大名・武将たちが岐阜に来て滞在し、信長に挨拶をするため出仕した。 それぞれに三献の作法で、招待の酒宴が開かれた。
他国衆が退出した後、信長のお馬廻り衆だけで、いまだかつて聞いたこともない珍奇な肴が出され、酒宴が行われた。
去年北国で討ち取った、
一、朝倉義景の首
一、浅井久政の首
一、浅井長政の首
以上三つ、薄濃にしたものを膳に置き、これを肴にして酒宴をしたのである。皆が謡をうたい、遊び興じた。信長は何もかも思いどおりとなって誠にめでたく、上機嫌であった。

『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳 新人物文庫 2013年から

「薄濃(はくだみ)」とは、漆塗りに金粉を施すことです。

ただ、髑髏(どくろ/しゃれこうべ)杯にして信長が酒を飲んだとする記録はなく、このことは後代の創作のようです。

高野山奥之院供養塔

和歌山県伊都郡高野町。
浅井長政供養塔です。30町石と31町石の中間付近にあります。
近年の発見で、木下浩良著『戦国武将と高野山奥之院』で紹介されています。
2016年5月の訪問ですが、当時、案内の標柱は建てられていませんでした。

高野山奧之院浅井長政
【浅井長政供養塔高野山奧之院
2017年5月撮影。

供養塔は宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、高さは162cmと奧之院の中では比較的小ぶりです。
宝篋印塔の基礎石に次の銘文が刻まれています。

江刕浅井備前守殿
爲天英宗清大居士菩提
文禄元年九月朔日

長政の没年は天正元年(1573年)ですが、この石塔には、文禄元年(1592年)9月の日付があります。
このことから、この年に長政の年忌供養が盛大に行われ、本塔が造立されたようです。
造立者名はありませんが、近くに、長政とお市の方の娘、初を正室とした京極高次の供養塔があることから、初の意向で京極家が造立したと考えられています。

京極高次の供養塔については、別の機会に改めて紹介します。

高野山奧之院京極氏
【京極氏供養塔】高野山奧之院
大津籠城戦死者(左端)、京極高吉(中央)、京極高次(右端)供養塔供養塔。浅井長政供養塔はこの右手にあります。2017年5月撮影。
高野山奧之院
【高野山奧之院供養塔】
『高野山奥の院の墓碑をたずねて』高野山宿坊組合・高野山観光協会・高野山参拝講 から
これは現地で販売されているマップです。浅井長政と京極家の供養塔の記載はありませんが、大津籠城戦死者供養塔はマップにあることから、長政の供養塔を探すときの目印になります。2017年のものなので、現在は更新されているかもしれません。

徳勝寺墓所

滋賀県長浜市平方町。
浅井三代の墓所、徳勝寺の宝篋印塔です。
(左) 浅井長政
(中) 浅井亮政
(右) 浅井久政

京極家は、中世から一貫して「宝篋印塔」を採用しています。浅井家もそれにならっているのでしょう。ただし、京極高次(滋賀県米原市徳源院)、常高院(初)(福井県小浜市常高寺)の宝篋印塔は笏谷石製の「越前式」で、これとは違います。

徳勝寺浅井三代墓
【浅井三代墓所】徳勝寺
2017年4月撮影。
徳勝寺浅井三代墓
【浅井三代墓所】徳勝寺
2017年4月撮影。
徳勝寺
【現徳勝寺】
2017年4月撮影。
徳勝寺文化財
徳勝寺 現地説明板】
2017年4月撮影。

徳勝寺(滋賀県長浜市平方町)
長浜城、JR長浜駅から南に800mほどです。本堂前に数台分の駐車スペースがあります。

小谷城内

滋賀県長浜市。

旧徳勝寺
【徳勝寺跡小谷城清水谷
2017年4月撮影。
浅井長政自刃之地
【浅井長政公自刃之地碑小谷城赤尾屋敷
2017年4月撮影。
小谷城赤御屋敷
赤尾屋敷跡】小谷城
2024年3月撮影。
浅井長政自刃の地
赤尾屋敷跡】小谷城
2017年4月撮影。
浅井久政自刃の地
小丸跡】小谷城
浅井久政自刃の地です。2017年4月撮影。
小谷城
【小谷城赤色立体図

参考文献
・木下浩良『戦国武将と高野山奥之院』朱鷺書房 2014年
・長浜市教育委員会『史跡小谷城跡総合調査報告書』2020年


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