浅井三姉妹 江(崇源院) 墓 (1)

 

江(崇徳院)

浅井三姉妹は、浅井長政と織田信長の妹、市との間に生まれた茶々、 、江です。
三女は一般的に江(ごう)として知られていますが、督(ごう)小督(おごう)の字が当てられることもあります。他に尊称として「於江与之方(おえどのかた)」、は達子(みちこ)。崇源院(すうげんいん/そうげんいん)は院号です。

江は、初め織田家臣の佐治一成と結婚(婚約)しますが、秀吉の命より離縁。秀吉と織田信雄が絡む話のようで、その経緯には諸説あるようです。その後、秀吉の甥で養子、秀次の実弟である豊臣秀勝と再婚しますが、秀勝は天正20年(1592年)に朝鮮出兵の陣中で急逝。
文禄4年(1595年)9月に江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠と3度目の結婚をします。千姫(豊臣秀頼室)、珠姫(前田利常室)、勝姫(松平忠直室)、初姫(京極忠高室)、家光(3代将軍)、忠長(駿河大納言)、和子(後水尾天皇中宮)の2男5女をもうけました。徳川将軍家で正室が将軍・天皇皇后生母となったのは江のみです。

墓所は東京芝の増上寺(東京都港区)の徳川家霊廟(徳川将軍家墓所)ですが、他に高野山奧之院(和歌山県高野町)、金戒光明寺(京都府左京区)などにも供養塔があります。

今回は、増上寺の徳川家霊廟の崇源院墓所と、徳川将軍家の墓塔について少しまとめてみました。

徳川将軍家墓所
(1)  【現徳川家霊廟】増上寺
手前、台徳院(秀忠)・崇源院(江)合祀墓、奧、文昭院(家宜)墓
台徳院霊廟・崇源院霊牌所明治時代古写真
(2)  【台徳院霊廟・崇源院霊牌所】明治時代古写真
『台徳院殿霊廟模型ガイドブック』(2017年)からの転載です。手前の唐門が(3)の正面唐門です。
崇源院霊牌所明治時代古写真
(3)  【崇源院霊牌所】明治時代古写真
『港区史』(2021年)からの転載です。右から唐門・拝殿・本殿です。徳川家霊廟の古写真は、明治時代以降絵葉書としてけっこう出回っているようです。

崇源院葬礼

江は、寛永3年(1626年)9月15日、江戸城西の丸で死去、享年54。法名は「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」。

増上寺本堂
(4)  【増上寺 本堂】

崇源院は、徳川家の主家筋にあたる織田家の出身であること、将軍・天皇皇后生母であることから、葬礼から墓所、年忌供養にいたるまで将軍正室としては破格の厚遇でした。正室側室で三十三回忌、五十回忌法要が行われたのは崇源院だけです。

死去当日、遺体は増上寺に移されました。ただ、秀忠、家光はこの時京都二条城にいて不在だったため、式は10月18日に行われました。
崇源院は、増上寺徳川家墓所の埋葬者としては唯一火葬でした。崇源院荼毘の様子は『大猷院(たいゆういん)殿御実紀』、『東武実録』などから知ることができます。
火葬は、現在の六本木交差点周辺で行われました。以下『港区史』からの引用です。

「寛永3年(1626)、お江の方(崇源院)の野辺の送りは、増上寺から西方に続く「浅布野(あざぶの)」と定められた。当時はまだ邸宅などもない、野原であったとみられる。火葬を行う「荼毘屋」(火屋)までは、増上寺からの距離1000間(約1800m)で、菰(こも)の上に白布10反(畳の面積にして約6000枚分)が敷かれ、葬送の「御道筋」となった。白張100人が担った龕(がん)(棺)の列は、僧俗の従者や、江戸城の女官たちの輿(こし)60挺など、参列者1000人以上で道筋を埋めた。1間(約1.8m、以下本節のメートル法表記はすべて概数)ごとに、在府の諸大名家からの警衛、その外側をさらに足軽が守った。「御火屋」のまわりは60間(108m)4方と100間(180m)4方という2重の檜の垣根があり、各々4辺に門と額を構えた丹塗りの建築であった。周りを弓鉄砲衆が護り、火屋の右には6つの堂がおかれた。32間(57m)に積まれた沈香(じんこう)(香木)に火を放つと「香烟(こうえん)、十丁(1090m余りに及べり」という光景であった。また道筋の右手には、葬送のために「龕前堂(がんぜんどう)」(屋外の参拝施設)が設けられていた。龕前堂は、間口5間(9m)、奥行き6間(10.8m)、高さ2丈7尺(8m)の吹き放しの建屋で、中は紙貼りで天人などが描かれていた」(港区 2021年)(『港区史』は縦書きのため、数字・単位の表記を変更しています)

1.8kmの「御道筋」に白布を敷いたり、32間(57m)に渡って積んだ香木の「沈香」で荼毘に付すなど、ちょっと考えられない光景です。

崇源院霊廟

崇源院の墓所は増上寺です。徳川家で増上寺に最初に埋葬されたのは慶長6年(1601年)に死去した秀忠の長男長丸ですが、徳川将軍家の墓所としての本格的な造営は崇源院からになります。
崇源院の墓所は、遺体を埋葬した「墓所(墓塔・宝塔)」と霊を祀る「霊廟(霊牌所)」に分かれますが、場所と施設は、後から死去した秀忠の墓所との関係などから何回か変更がありました。

増上寺御廟図パンフ
(5)  【増上寺御廟図】
現地見学者用パンフレットからの転載(一部加筆)です。他図と方向を合わせるために横にしました。
徳川家霊廟南御霊屋
(6)  【徳川家霊廟南御霊屋部分】
『近世大名墓の世界』(2013年)から転載(一部加筆)です。

・寛永3年(1626年)9月15日、江(崇源院)死去
  墓塔 宝篋印塔(設置場所不明)、霊牌所(境内丸山)

・寛永9年(1632年) 1月24日、秀忠(台徳院)死去
  墓所 奧院(八角形覆屋+木製宝塔)(境内丸山)、霊廟(本堂南)

丸山にあった崇源院霊牌所は、秀忠奧院と五重塔造営にともない建長寺(神奈川県鎌倉市)に移築。現在の仏殿 (国重要文化財)(※リンクはwikipedia)はもとの崇源院霊牌所本堂です。崇源院霊は台徳院霊廟院に(仮)合祀されました。

・正保4年(1647年) 5月29日、地震被害。

・正保4年~慶安元年(1647~1648年)、
  崇源院宝篋印塔を石製宝塔に改める(北御霊屋)
  崇源院霊牌所再建(本堂南、台徳院霊廟隣地)

江戸図屏風
(7)  【江戸図屏風 左隻部分】
16世紀前半の江戸市中と家光の事蹟を描いたもの。『港区史』(2021年)から転載(一部加筆)しました。

寛永9年(1632年)に2代将軍秀忠(台徳院)が死去。家光によって台徳院霊廟が造営されました。日光東照宮に先行して幕府作事方が総力を結集した壮麗な建築群で、惣門、勅額門、中門を経て丸山丘陵中腹に権現造(拝殿と本殿を廊下状の相之間でつなぐ)の御霊屋(霊廟)が、丸山頂部に墓所である八角形覆屋のある奥院宝塔、そして五重塔が建立されました。

これにともない、丸山頂上付近にあった崇源院霊牌所は鎌倉建長寺に解体移設されますが、正保4年(1647年)に場所を変えて再建された崇源院霊牌所も権現造で、敷地は狭いものの建物の規模と意匠は台徳院霊廟に引けをとらないものだったようです。

なお、増上寺墓所は、南御霊屋地区と北御霊屋地区に分かれていますが、崇源院の宝塔は北御霊屋地区、霊牌所は南御霊屋築に分かれています。なぜかは不明。

将軍家の墓塔

徳川将軍家は、墓塔として「宝塔形式」を採用しましたが、これは家光の代に定められました。
増上寺に最初に埋葬されたのは慶長6年(1601年)に死去した秀忠の長男長丸ですが、長丸の墓塔は宝篋印塔で、これに続く崇源院も最初は宝篋印塔でした。戦後の発掘調査で崇源院の宝塔下から宝篋印塔の残欠が発見されています。さらに、2015年になって山梨県塩山市恵林寺で宝篋印塔の基礎石(恵林寺では石櫃として展示)が発見されています。

崇源院(江)石製宝塔
(8)  【崇源院(江) 石製宝塔】増上寺徳川家霊廟
秀忠(台徳院)の宝塔は木製で、戦災で焼失したため、戦後崇源院と合祀されました。
さ初期のものは断面が八角形。その後樽形になります。

・初代家康 久能山東照宮神廟
  元和2年(1616年)没 木製多宝塔
  寛永17年(1640年) 石製宝塔 (家光改)

・初代家康 日光東照宮奥宮宝塔
  元和5年(1619年)没 木製多宝塔
  寛永13年(1636年) 石製宝塔 (家光改)
  天和3年(1683年) 銅製宝塔 (綱吉改)

・2代秀忠 増上寺
  寛永9年(1632年)没 木製八角形宝塔

・2代秀忠室江(崇源院)
  寛永3年(1626年)没 宝篋印塔
  慶安元年(1648年) 石製八角形宝塔 (家光改)

・3代家光 日光輪王寺
  慶安4年(1651)没  石製宝塔

・4代家綱 寛永寺
  延宝8年(1680年)没 銅製宝塔

・5代綱吉 寛永寺
  宝永6年(1709年)没 銅製宝塔

・6代家宣 増上寺
  正徳2年(1712年)没 銅製宝塔

・7代家継 増上寺
  正徳6年(1716年)没 石製宝塔

・8代吉宗 寛永寺
  寛延4年(1751年)没 石製宝塔

徳川家康神廟
(9)  【東照大権現(家康) 石製宝塔】
久能山東照宮神廟(静岡県静岡市)
徳川将軍家墓所銅製宝塔
(10)  【銅製宝塔】増上寺徳川家霊廟
(A)文昭院(6代家宜)、(B)静寛院(14代家茂室和宮)

徳川将軍家墓塔形式は、家光が石製宝塔と定め、それを綱吉が銅製に改めました。
家康の墓塔は最初木製多宝塔でしたが、家光がこれを石製宝塔に変更。日光東照宮についてはその後地震被害があり、綱吉が石製宝塔を銅製に改めました。

銅製宝塔は、3代家光から6代家宣まで採用されましたが、財政再建を施策の軸とした8代吉宗の命により7代家継から石製にもどりました。
吉宗は御霊屋(霊廟)の新築も中止したため、7代将軍家継の有章院殿霊廟が最後となり、吉宗自らも既存の霊廟に合祀されました。

なお、14代家茂室静寛院(皇女和宮)は青銅製ですが、これは明治10年(1877年)になってからのものです。
また、宝塔に扉があることから、ここに遺体が納められているように見えますが、宝塔内はおそらく墓碑のみで、遺体は地下の石室です。

戦後の増上寺徳川家霊廟

芝増上寺の徳川家霊廟(徳川家将軍家墓所)は、多くの建物が旧国宝に指定されていましたが、太平洋戦争末期、1945年3月10日(北御霊屋)と5月25日(南御霊屋)の東京大空襲で大部分の建物を焼失してしまいました。戦後しばらく放置されていましたが、徳川家が土地を西武鉄道に売却することなり、1958年から1961年に文化財保護委員会(文化庁の前身)が中心となって発掘調査が行われました。

増上寺御廟図現地説明板
(11)  【増上寺御廟図】
現地説明板から(一部)。現在戦前の合成図。水色範囲が現状の増上寺です。
現在の徳川将軍家墓所
(12)  【現在の増上寺徳川将軍家墓所】
(a)現在は8基の宝塔のみ。(B)現徳川将軍家墓所門(旧文昭院(6代家宜)宝塔前中門、(C)石灯籠「台徳院」銘
旧文昭院(6代家宜)宝塔前中門
(13)  【現徳川将軍家墓所門】
旧文昭院(6代家宜)宝塔前中門を使用。

増上寺に埋葬されていたのは、2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の他、2代秀忠夫人崇源院、14代家茂静寛院(皇女和宮)など将軍の室子女を含む計38名でした。
崇源院以外はすべて土葬であったため、発掘された遺体は、東京桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所(増上寺安国殿裏)に改葬されました。
この時の墓所整理で、石造物の多くは埼玉県狭山市の不動寺に運ばれましたが、その後に散逸。将軍の諱の刻まれた石灯籠は各地にあるそうなので、立派な石灯籠を見付けたら確認してみると面白いかもしれません。
なお、不動寺には、戦災で焼失を免れた勅額門(台徳院廟)、御成門(台徳院廟)、丁字門(崇源院廟)が移築されています。まだ行ってません。

増上寺宝物展示室・徳川将軍家墓所
【開館時間】10:00〜16:00(最終入場15:45)
【休館日】火曜日(火曜日が祝日の場合は開館)
【入館料】セット券 1,000円
宝物展示室に展示されている「台徳院殿霊廟」の1/10模型は、日英博覧会のために高村光雲など東京美術学校が作成したもので、英国王室から長期貸与の形で日本に里帰りしているものです。一見の価値があります。

狭山山不動寺
【拝観時間】10:00〜16:00
西武球場前駅から徒歩5分だそうです。
くわしくは こちら

参考文献
・松原典明「徳川将軍家の宝塔造立事情再検討 崇源院宝塔を事例として」『近世大名葬制の基礎的研究』雄山閣 2018年
・港区『港区史』第2巻通史編近世上 2021年 港区/デジタル版 港区のあゆみ から
・坂詰秀一・松原典明編『近世大名墓の世界』季刊考古学別冊 雄山閣 2013年
・『増上寺御霊屋』見学者用パンフレット 浄土宗大本山増上寺
・ウイリアム・コールドレイク『台徳院殿霊廟模型ガイドブック』浄土宗大本山増上寺 2017年

江(崇源院)墓所(2)に続きます。


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