武田元明 墓

 

武田元明

若狭武田氏は、若狭国の守護大名です。
武田元明(1552(1562)?~1582年)は、永禄10年(1567年)4月、父義統の死去にともない若狭武田家の当主となりますが、義統のころから武田氏の若狭国支配は不安定で、守護代内藤重政(若狭天ヶ城)をはじめ、逸見昌経(高浜城)、粟屋勝久(国吉城)、熊谷直之(井崎城)などは、武田家の被官でありながら半独立勢力として割拠している状態でした。

後瀬山城
【後瀬山城 主郭石垣】(福井県小浜市伏原)
若狭武田氏の居城です。ただし、石垣は丹羽長秀時代です。
若狭国群雄割拠
【戦国時代後期の若狭国】

永禄11年(1568年)8月、朝倉義景は若狭国内の内紛に乗じて介入し、当主である武田元明を保護という名目で小浜から連れ去り、越前一乗谷に軟禁してしまいます。そして元明を傀儡として若狭国を実質支配下に置きました。

天正元年(1573年)8月、越前朝倉氏が滅亡すると元明は解放されますが、復権はかなわず、信長は丹羽長秀に若狭を任せました。元明は、自らの旧臣と同列の、長秀の与力の地位に甘んじることを強いられました。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変が勃発すると、これまでの鬱憤を晴らすかのように決起し、義兄京極高次とともに明智光秀に通じ、近江へ侵攻します。

光秀の敗死後の7月19日。元明は秀吉側に恭順の意を示すために丹羽長秀のもと近江海津に赴きますが、この地で忙殺されたとも自害したともいわれています。享年21または31。

武田元明墓

武田元明の墓所は、宝幢院(寳幢院)(ほうどういん)(滋賀県高島市マキシ町海津)にあります。近江国海津は武田元明最期の地です。
現存する元明の墓塔は、碑文によると、幕末の文政年間に再建されたもののようです。
五輪塔ですが、台座と地輪にも返花座が刻まれています。

武田元明五輪塔
【宝幢院 武田元明五輪塔】
武田元明五輪塔
【宝幢院 武田元明五輪塔】
火輪に武田菱、地輪に「武田治部少輔」、没年の天正10年7月19日他、文政7年の再建年と願主などが刻まれています。
宝幢院墓地
【宝幢院 墓地】
奧は湖西線です。
宝幢院
【宝幢院 山門】
峯山の最勝寺跡に残っていた山門を明治31年(1898年)に移築したものです。
武田元明現地解説板
【宝幢院 現地説明板】

宝幢院(滋賀県高島市マキシ町海津)
山門前に駐車スペースはあったと思います。武田元明墓は、山門右手、宝幢院境内の塀の外側の墓地にあります。

京極竜子(松の丸殿/寿芳院)

京極竜子(生年不詳~1634年)は、京極高次の妹で元明の正室です。
父は京極高吉、母は浅井久政の娘(京極マリア)。浅井三姉妹は従妹にあたります。
元明の死後、秀吉の側室となり、京極家復権に尽力しました。
竜子は、浅井三姉妹と同じような波瀾万丈の人生を歩みましたが。。ただ、何はともあれ間違いなく成仏できないのは、本能寺の変の際、京極高次ととも決起した武田元明だと思います。

なお、京極高次は、「女の尻の光のおかげで出世した」という意味で「蛍大名」と呼ばれています。ただ、実際当時そのように呼ばれていたかは確証がないようです。

竜子(寿芳院)の墓は、豊臣秀頼の子、国松とともに豊国廟下にあります。
しかし、豊国廟を訪れた2017年当時、龍子(寿芳院)墓、豊臣国松墓の情報を知らず、見逃したままです。浅井三姉妹と京極家そして武田元明の関係の中で欠くことのできないピースではあるのですが、今回画像を用意できていません。
いずれ、更新したいと思います。

豊国廟
【豊国廟入口】

龍子(寿芳院)・豊臣国松墓(京都市東山区今熊野)
墓所はもともと誓願寺(京都市中京区桜之町)にありましたが、現在は豊国廟拝殿左手に移されました。

参考文献
・福井県立若狭歴史博物館『若狭武田氏の誇り』朱鷺書房 2015年


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