豊臣秀頼・淀殿 墓

 

豊臣家の人々(2)
豊臣秀頼像
(1)  【豊臣秀頼像】玉造稲荷神社(大阪市中央区)

大坂冬の陣 大坂城山里曲輪

浅井長政と織田信長の妹、正室市との間に生まれた浅井3姉妹の長女茶々(淀殿)とその子豊臣秀頼です。

慶長20年(1615年)5月7日、大坂城天守炎上。翌5月8日未ノ刻(午後2時頃)、大坂城山里丸(やまざとまる)で豊臣秀頼、淀殿他主従30名は自刃しました。秀頼享年23、淀殿享年47。
遺骸は特定されず、自刃場所については当時から諸説ありました。

・「大坂落城五月八日朝、秀頼卿御存生ニ而、山里丸糒蔵ニ御座候」『藤堂家譜』
・「大坂本丸自焼、乍去秀頼、同御袋、翌日八日迄、天守下之丸之蔵ニ被生残候」『慶長二十年五月十一日付け伊達政宗書状』
・「大坂城中之焼殘之唐物倉ニ秀頼并御袋、大野修理・・」『本光国師日記』
・「五月八日、大坂落居、御屋形千畳敷ニテ、秀頼様并御母儀其外女房衆諸侍以下・・」『春日社司祐範記』

なお、昭和55年(1980年)に、京橋口の二の丸跡から栄養状態も良好な20代の男性の頭骨が発見されました。陶器などの副葬品もともなっていたことから、この頭骨は秀頼のものとされ、京都の清涼寺に葬られ、首塚が造立されました。

大坂城山里丸豊臣秀頼淀殿自刃之の地
(2)  【「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」碑】大坂城山里曲輪(大阪市中央区)
大坂城極楽橋
(3)  【大坂城 極楽橋と山里曲輪】

大坂城山里曲輪
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
大阪城天守閣他諸施設、大阪城西の丸庭園をのぞく大阪城公園は24時間入場可。
大阪城豊臣石垣館が2025年4月1日に公開予定。

山里曲輪(山里丸)は、豊臣期には茶室などが設けられ、秀吉が千利休や津田宗及などの茶人を招いて茶会を開いています。小早川隆景によれば、「古木などの儀、さながら物さびたる趣に候」とのことで、華麗な本丸とは対極の風雅を楽しむ場であったようです。
江戸時代には、大坂城の警固にあたった加番大名が詰める屋敷が設けられていました。
極楽橋」は金沢城にもありますが、大坂城と金沢城の前身は、それぞれ浄土真宗(一向宗)の拠点であった大坂(石山)本願寺と金沢御坊でした。大坂本願寺、金沢御坊の時代に、本阿弥陀仏がおられる御堂、極楽浄土に向かう橋として「極楽橋」の名が付けられ、それがその後の時代に継承されたと考えられています。

秀吉時代の極楽橋は、望楼をもつ廊下橋形式で、宣教師ルイス・フロイスが「黄金で輝く高貴な橋」と評している豪華絢爛なものでした。
この極楽橋は、文禄5年(1596年)に造られ、慶長5年(1600年)に秀吉の霊廟として建立された京都の豊国廟に移築されています。さらに豊国廟の社僧の日記には、慶長7年(1602年)に豊国廟「極楽門」を竹生島に寄進するため壊し始める、との記述があるそうです。

屏風絵にある極楽橋の正面唐門の姿が、竹生島宝厳寺にある唐門と酷似するとのことで、この唐門が豊臣大坂城唯一の現存建物である可能性が推定されています。
宝厳寺の国宝唐門は、近年修復工事が終了しましたが、まだ行っていません。

豊臣秀頼像と豊臣秀吉像

(写真1・4)は、豊臣大坂城の三の丸に位置する、玉造稲荷神社(大阪市中央区)境内にある豊臣秀頼像です。高さ6m(像3m、台座3m)です。
作者は、大阪城豊國(ほうこく)神社正面に建立されました豊臣秀吉像(写真5)と同じ、文化勲章受章者中村晋也氏です。
秀吉像は2007年に、秀頼像は2011年に建立されました。

豊臣秀頼像
(4)  【豊臣秀頼像】玉造稲荷神社
豊国神社豊臣秀吉像
(5)  【豊臣秀吉像】大阪城豊國神社(大阪市中央区)
京都の豊国神社は「とよくに」、大阪城豊國神社は「ほうこく」と読みます。

秀吉像は、小田原城攻めのときの豊臣秀吉をイメージしたものとのことですが、晩年の、朝鮮の役のころのダークサイドに落ちた独裁者の怖さがあります。圧倒的な存在感で、個人的には、武将像の最高傑作だと思っています。高さ5.2m(像3.2m、台座2m)です。

これに比べると、秀頼像は、公家眉にほっぺたぷっくりのお坊ちゃま顔で、残念ながら、これはちょっと納得できない。。
京都養源院蔵の肖像画はもっと細面ですが、祖父(母淀殿の父)の浅井長政も丸顔で、そのあたりを考えてのことでしょうか。
浅井長政は長身巨漢で、秀頼本人も、身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(約161kg)であったとする史料があり、慶長16年(1611年)3月、二条城で秀頼と会見した家康が、秀頼の存在感に衝撃を受け豊臣家打倒を決意したともいわれています。

玉造稲荷神社
(6)  【玉造稲荷神社】
玉造稲荷神社鳥居
(7)  【豊臣秀頼 寄進鳥居】玉造稲荷神社
玉造稲荷神社鳥居説明
(8)  【豊臣秀頼 寄進鳥居 解説】玉造稲荷神社

玉造稲荷神社は、豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたとのことです。
(写真7)は、豊臣秀頼寄進鳥居です。慶長8年(1603年)3月の銘があります。残念ながら、阪神・淡路大震災により基礎が損傷し、現在は境内におかれています。

玉造稲荷神社
大阪市中央区玉造2-3−8
境内無料。駐車場不明。
大阪城森ノ宮駐車場から南に約500m。

豊國神社
大阪城二の丸南側。
境内無料。
祭神は、豊臣秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長。

豊臣秀頼・淀殿 高野山奧之院供養塔

高野山奧之院の秀頼・淀殿(大虞院)供養塔は、近年の発見であり、木下浩良著『戦国武将と高野山奥之院』で紹介されています。22町石と23町石の中間付近山側にある上杉謙信・上杉景勝霊屋の正面左側の並びにあります。
(写真9)は2016年5月のもので、案内の標柱もなく荒れ放題でした。
ともに、高さ約3mの砂岩製の五輪塔です。

銘文(秀頼塔)(左)
 御取次筑波山知足院
 嵩陽院殿秀山大居士尊儀
 慶長貮十 年五月七日

銘文(淀殿塔)(左)
 御取次筑波山知足院
 大虞院殿英岩大禅定尼尊儀
 慶長貮十 年五月七日

高野山奧之院豊臣秀頼淀君供養塔
(9)  【高野山奧之院 豊臣秀頼・淀殿供養塔】(和歌山県高野町)
左 : 秀頼塔、右 : 淀殿塔

毎日新聞2023年11月17日(web版)によると、高野山真言宗総本山金剛峯寺が2023年度から始めている奥之院参道墓石の整備事業(国庫補助)の第1弾として、この五輪塔2基の修復が行われました。2024年5月20日には、金剛峯寺と清浄心院の共催で、開眼法会が行われたとのことです。写真で見ると、荒れ放題であった場所もきれいになり、説明板も設置されたようです。くわしくは こちら

高野山奧之院上杉謙信景勝霊屋
(10)  【高野山奧之院 上杉謙信・上杉景勝霊屋】(和歌山県高野町)
高野山奧之院上杉謙信景勝霊屋
(11)  【高野山奧之院 上杉謙信・上杉景勝霊屋

刻まれている日付は、慶長20年(1615年)5月7日で、大坂城落城の日です。木下浩良氏は、銘文にある「筑波山知足院」の僧侶光誉が、大坂の陣に徳川方として参陣した戦勝祈願のための陣僧であることから、家康の指示により造立された可能性を想定しているようです。

ただ、この区域は清浄心院が管理する上杉家の墓所です。
有力大名家は、高野山諸院を檀那寺(だんなでら)とする檀家となり、経済的に支える一方で宿坊の提供や、墓所の管理、追善供養や逆修供養を行ってもらっていました。
右側に隣接する石廟は、右側に「米沢直江山城守◯◯」、左側に「寛永十4年正月4日○○」とあり、没年から兼続夫人お船(貞心尼)の墓とわかります。

秀頼・淀殿供養塔の造立者が家康なのか景勝なのかは不明ですが、両者の合意がなければ成立しなかったのは間違いないのではと思っています。上杉家が自ら火中の栗を拾うのも考えにくいので、家康(徳川家)が上杉家にやらせたというところでしょうか。

高野山奧之院直江船
(12)  【高野山奧之院 直江兼続室 お船の方(貞心尼)石廟】(和歌山県高野町)
林泉寺直江夫妻墓
(13)  【林泉寺 直江兼続夫妻石廟】(山形県米沢市)
左 : 兼続墓、右 : お船

春日山林泉寺
山形県米沢市林泉寺1-2-3
【拝観時間】9:00〜16:00
【休止日】祝日をのぞく水曜日
【境内拝観料】100円
山門近くに駐車場。

高野山奧之院
【高野山奧之院供養塔】
『高野山奥の院の墓碑をたずねて』高野山宿坊組合・高野山観光協会・高野山参拝講 から
これは現地で販売されているマップです。2017年のものなので、現在は更新されているかもしれません。

高野山中の橋駐車場
和歌山県伊都郡高野町高野山49−41
奧之院に最も近い駐車場です。無料ですが、2024年11月から、時期を区切って有料化実証実験が行われているようです。

参考文献
・木下浩良『戦国武将と高野山奧之院』朱鷺書房 2014年

浅井三姉妹とその縁者、豊臣家の人々、続きます。

2016年5月(高野山奧之院)、2019年3月(大阪城)、2019年10月(米沢市)、2024年12月16日投稿