浅井三姉妹とその縁者(3)
清瀧寺京極家墓所
清瀧寺(せいりゅうじ)徳源院(とくげんいん)(滋賀県米原市清滝)は、京極家の菩提寺であり、墓所は国指定史跡に指定されています。
京極家19世当主京極高次は、関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城籠城戦で、一部西軍を足止めした功により若狭一国8万5,000石へ加増転封されました。
しかし、京極高次の墓所は小浜ではなく、現滋賀県米原市清滝にあります。
清瀧寺のある柏原(清瀧寺は旧滋賀県坂田郡柏原村からは若干外れます)の地は、京極氏の始祖氏信(1220~1295年)が居館を構えた京極氏の「本貫地」であり、氏信は、弘安9年(1286年)に自身の菩提寺として清瀧寺を創建しました。
高次は、清瀧寺を改修して自らの墓所としますが、さらに整備を進めたのは讃岐丸亀藩2代藩主22世高豊で、自藩領の一部を幕府に返上し、その替地として京極氏の本貫地であるこの地を取り戻しました。そして、散在していた始祖氏信から18世高吉に至る歴代当主の墓を清瀧寺に集め、京極家の累代墓所としました。
江戸時代、藩そして家名の永続を最大の使命とする大名家では、祖先崇拝を重視する儒教や吉田神道が(先進的な藩主を中心に)普及しました。清瀧寺墓所には儒式葬の影響は認められませんが、成り上がりの大名家にはまねのできない、武家とっての理想的な墓所ではないかと思います。
清瀧寺墓所、儒葬墓については、改めてまとめる予定です。
京極高次墓
清瀧寺京極家墓所の京極高次(1563~1609年)墓は、笏谷石(しゃくだにいし)製の石廟(石製の霊屋)と宝篋印塔です。
笏谷石製の石廟は、北陸の前田家、越前松平(結城)家を中心に、遠くは北海道松前藩松前家墓所でも採用されています。
石廟内には、宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。高さは1.66mです。
京極家では代々宝篋印塔を石塔としています。
高次の石塔は、正室の常高院(初)と同じ「越前式宝篋印塔」と呼ばれているもので、塔身に月輪文様をもつことを特徴としています。そして、笏谷石製の越前式宝篋印塔と石廟はセットになることが多いようです。
越前式宝篋印塔と石廟についても、改めてまとめる予定です。
京極高吉墓
京極家18世当主京極高吉(1504~1581年)墓は、清滝寺京極家墓所上段にあります。
上段宝篋印塔は2mをこえる宝篋印塔がほとんどですが、これは1.1mです。砂岩製で越前式でもありません。
京極高吉は、高次の父です。
暗黒の浅井傀儡時代の京極氏、15世高清から19世高次の間の動向は不明な点が多く、中世佐々木・京極家系図と江戸時代に編さんされた近世京極家系図も、この間混乱が見られます。高清の後、高峯、高秀といった実在が疑われる人物がいたり、高吉長男の高次が高吉59歳、次男高知にいたっては68歳の子であるといったあたりも、なにかしら後世につじつま合わせが行われたような気がします。。
清瀧寺徳源院(滋賀県米原市清滝)
HPによると、予約制での拝観を行っているようです。拝観料は大人500円。ただし、墓所については、修理中のため当面拝観ができないとのこと。くわしくは こちら 。
高野山奥之院京極高次墓所
先日投稿した浅井長政供養塔の左手(参道側)に、京極高吉・京極高次・大津籠城戦死者供養塔が並んでいます。
高吉の供養塔は砂岩製の宝篋印塔で、高さ119.2cm。「慶長六年辛丑二月彼岸日」とあることから、関ヶ原の戦いの翌年、高吉の二十回忌に高次が造立したもののようです。
高次の供養塔は砂岩製の宝篋印塔で、相輪を欠き、現高で72.8cmです。「若狭小浜城主 泰雲院殿宰相公」とともに「慶長十四年五月三日」とあることから、死の翌年に造立されたものです。
宝篋印塔は越前式ではありません。高野山の京極家の檀那寺(どこかは不明)の方で用意したのかもしれません。
主家筋の京極家を「浅井」シリーズに入れるのは、京極家からすると不本意だと思いますが、ご容赦ください。