笏谷石概要 (1)
「越前式荘厳」と笏谷石の歴史

(福井県越前町)
笏谷石とは
笏谷石(しゃくだにいし)は、福井県福井市の足羽山(あすわやま)(標高116m)周辺を産地とする良質の凝灰岩です。「越前青石」の別名をもつ福井県越前の名石で、1500年以上にわたって、越前から北陸地方の歴史に深い関わりをもってきました。一乗谷朝倉氏遺跡西山光照寺の石仏群や丸岡城天守の石瓦など、笏谷石を知ることは越前の歴史を辿ることでもあります。
笏谷石を主要な構成文化財とする「400年の歴史の扉を開ける旅〜石から読み解く中世・近世のまちづくり越前・福井〜」が、2019年5月に日本遺産として認定されています。
笏谷石は、ただの特産品ではありません。
中世の越前国と周辺地域では、笏谷石を用いた固有な装飾(越前式荘厳)(写真1)にもとづくシンボリックな文化を形成しました。これは、大名や宗派をこえ、地域のアイデンティティとして共有されました。
笏谷石研究の歴史も古く、これまでに多くの著作、論文が蓄積されています。これらを理解するどころかすべてに目を通すことすらできていませんが、現状での私なりの理解の中で、笏谷石の歴史をまとめてみました。今後の笏谷石関連遺跡の投稿のベースです。
笏谷石については、2025年1月に本ブログで一度まとめたことがあるのですが、気に入らない部分が多々出てきてしまったため、今回全面的に書き直しました。
「越前式荘厳」
笏谷石の歴史は、古墳時代にさかのぼります。『福井県史』(福井県 1986年)によると、越前では古墳の石棺が28例確認されていて、そのほとんどが笏谷石製とのことです。ただし、その分布範囲は、越前国内でも福井市、永平寺町、坂井市丸岡町に集中していて、この時代は、あくまでも地方(じかた)で流通した石材にすぎませんでした。
奈良・平安時代にも、寺院跡の礎石などに使用例はあるようですが、笏谷石に特別な価値を見出していたわけではなさそうです。
担い手となる石工(仏師)が定着し、笏谷石を用いて独自の文化を創出し始めたのは鎌倉時代になってからです。
多層塔・宝篋印塔・五輪塔・宝塔・多宝塔などの笏谷石製石塔類に表現された独自の装飾は、戦後早くから注目され、増永常雄氏(増永 1946年・1957年・1962年)や川勝政太郎氏(川勝 1956年)、京田良志氏(京田 1961年)らによって、昭和30年代には「越前式荘厳」と称されるようになりました。「越前式荘厳」は地域固有の伝統として江戸時代前半期まで引き継がれていきます。
三井紀生氏は、「越前式荘厳」を以下のようにまとめています(三井 2004年・2018年)。
(1) 月輪の外周に小蓮弁をめぐらせた荘厳形式
(2) 竪連子と格狭聞を組み合わせた荘厳形式
(3) 屋形風石骨粗および石廟
(4) 唐破風屋根を有する墓標
個別の特徴や石塔などには、「越前式月輪」、「越前式宝篋印塔」、「越前式石廟」などの名称も使用されています。
なお、(4)は17世紀後半から19世紀にかけて流通した墓標で、(1)~(3)とは直接関連しないと思います。
笏谷石製石塔
以下は、鎌倉時代から南北朝期の笏谷石製の石塔・石碑で、紀年銘をもつものです。(三木治子 2002年)(古川登 2017年)(山下立 2025年)などを参考にしました。
【鎌倉時代から南北朝期の笏谷石製石塔・石碑】
(a) 文永2年(1265年) 深谷町五輪塔(地輪) 福井市
(b) 文永3年(1266年) 上金屋八幡神社多層塔 坂井市丸岡町
(c) 文永11年(1274年) 井向白山神社阿弥陀三尊種子板碑 坂井市坂井町
(d) 弘安3年(1280年) 阿保町塔(塔身) 福井市
(e) 正応3年(1290年) 法楽寺「親尊」墓五輪塔(地輪) 越前町
(f) 正応3年(1290年) 高尾神社多層(七重)塔 福井市 (写真2(C))
(g) 元応元年(1319年) 日吉神社多層塔 福井市
(h) 元享3年(1323年) 大谷寺九重塔 越前町 (写真2(A)(B)、図1)
(i) 正慶元年(1332年) 住吉神社胎蔵大日種子板碑 坂井市春江町
(j) 建武元年(1334年) 山田家多層塔 越前市
(k) 観応元年(1350年) 大谷寺五輪塔(1号地輪) 越前町
(l) 観応3年(1352年) 大谷寺円山宝塔 越前町 (写真1・5、図2)
多層塔と塔身装飾
紀年銘をもつものは九重塔などの多層塔が中心です。多層塔は江戸時代初期まで製作されますが、敦賀をのぞく越前の多層塔は約60基あり、可能性のあるものはさらに20基ほどあるようです(赤澤徳明 2022年)。正確な状況は把握できていませんが、他地域に比べて多いと思います。
これらのうち(a)以外は、「越前式荘厳」(1)の塔身(月輪)装飾をもちます。「越前式荘厳」の基本となる装飾です(写真1・2、図1・2(A))。

(A)(B)大谷寺九重塔(福井県越前町)、(C)高尾神社多層塔(福井県福井市)。大谷寺九重塔は、国指定重要文化財。

(福井県越前町)、背景図は(古川登 2011年)から転載させていただきました。
「越前式荘厳」(1)は、蓮華座の上に小花弁を周囲に配した細線陽刻園線月輪を載せ、月輪中央に種子を刻みます。「月輪(がちりん)」は、仏菩薩を囲む円相のことで、「種子(しゅじ)」は、仏教の諸尊を梵字一文字で表現しています。
「越前式荘厳」(1)は、多層塔の塔身(初層軸)、宝篋印塔塔身、五輪塔水輪などの塔身装飾で、板碑にも用いられます。
五輪塔
紀年銘石塔で現状最古は、一覧(a)の五輪塔です。
五輪塔は、16世紀に爆発的に増加しますが、中世前半でもおそらく最も多数製作されていたと思われ、大谷寺(おおたんじ)(福井県越前町)境内には、多量の五輪塔がまとめられています(写真3・4)。
古川登氏の編年研究によると、「越前式荘厳」の五輪塔の出現は、12世紀代にさかのぼる可能性が高いようです(古川 2025年)。

(福井県越前町)

(福井県越前町)、水輪に月輪。
【越知山大谷寺】
福井県丹生郡越前町大谷町
白山平泉寺(福井県勝山市)とならぶ白山修験の寺。九重塔は、白山を開いた泰澄の廟所と伝わる。円山宝塔は、大谷寺から北へ約600m。
宝塔・宝篋印塔と基礎装飾
「越前式荘厳」(2)の基礎装飾は、月輪の塔身装飾の(1)から遅れ、現状では観応3年(1352年)の大谷寺円山(まるやま)宝塔(福井県越前町)(写真1・5、図2(B))を最古とします。基礎装飾は、一側面を4区画に区分し、上部2区画に「竪連子(たてれんじ)」、下部2区画に「格狭間(こうざま)」を表現しています(図2)。
これは、宝篋印塔の基礎を中心に、「越前式荘厳」の基本的な意匠として近世まで用いられます。五輪塔の基礎(地輪)に施文されることは基本ありません。

(福井県越前町)

(福井県越前町)、背景図は(古川登 2011年)から転載させていただきました。
宝篋印塔は、関西形式と関東形式に大別されますが(図3)、越前式の宝篋印塔は、関西形式の派生形式になります。関西形式の宝篋印塔でも月輪は描かれますが、関西形式の月輪は通常陰刻の単線のみです(写真5)。越前式は装飾的です。

背景図は(斎木勝 1986年)からの引用です。関西形式は基礎が低く安定感があり、関東形式は基礎が高くやや細身です。関東形式の塔身の周囲には一段高い「輪郭」、基礎にも2区画の「輪郭」をもちます。

(滋賀県大津市)。室町時代前期。典型的な関西形式の宝篋印塔。国指定重要文化財。
越前の宝篋印塔は、五輪塔と比べると圧倒的に少数で、紀年銘をもつものでは、三国湊の性海寺(しょうかいじ)(福井県坂井市三国町)の明応8年(1499年)銘塔(写真7)が私の知る限り最古です。ただ、宝篋印塔の出現年代がそこまで下がることはないと思います。

(福井県坂井市三国町)

(福井県坂井市三国町)
【性海寺】
福井県坂井市三国町南本町4丁目
真言宗智山派の寺院。三国湊の豪商森田家など、中世末から近世の墓所がほぼ当時の景観のまま残されている。
笏谷石工の定着は、鎌倉時代で、その当初から「越前式荘厳」の塔身(月輪)装飾がシンボリックに用いられていたと推定されます。石工定着の経緯は不明ですが、白山を開山したと伝わる泰澄(682年~767年)の創建した越知山大谷寺(越前町)など、白山信仰にもとづく需要が背景にあったと考えられています(赤澤徳明 2022年)。多層塔の多くが神社にあるのも、そうした経緯に関係するのかもしれません。
石工に関して、大谷寺九重塔には「大工平末光」銘があります(図1)。全国で確認されている平姓の石大工の銘は3名6例で、すべて近畿のものとのことです(増永常雄 1946年、三木治子 2002年)。笏谷石工の出自を示している可能性があります。
多様化と多量化
石塔(一石五輪塔)の量産化
15世紀までの笏谷石製品は、石塔・石碑が中心で、願主の依頼にもとづく受注生産が基本であったと思われます。
しかし、15世紀末から16世紀になると状況は一変します。『福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館ガイドブック』(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 2022年)によると、一乗谷朝倉氏遺跡(福井県福井市)では、約6,000点もの石仏・石塔などの石造物が確認されていて、永正年間(1504年~1521年)から爆発的に増加します。これらのほとんどは笏谷石製です。(図4)(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 2015年)はあくまでも紀年銘をもつものだけですが、傾向を知ることはできると思います。

(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 2015年)から、一部加除。
爆発的に増加は、おもに高さ50~60cm程度の小型の一石五輪塔(写真9)を要因とします。
15世紀末あたりからの小型石塔・石仏の増加は、畿内など各地域で認められますが、越前以外の地域では、小型化と同時に粗略化も進行します。石仏・石塔群は、京都市左京区の化野念仏寺(あだしのねんぶつでら)が有名ですが、滋賀県でも百済寺(ひゃくさいじ)子院の引接寺(いんじょうじ)(東近江市)(写真10)や石塔寺(いしどうじ)(東近江市)などで圧倒されるほどの数の石仏・石塔を見ることができます。

(福井県福井市)

(滋賀県東近江市)(A)石龕仏群、(B)組合式五輪塔群、(C)一石五輪塔群。百済寺墓地に造立されていたものをまとめたもの。
この時期の小型石造物(石塔・石仏)は、中世前期とは違い、墓地に造立することを目的としてつくられました。滋賀県多賀町の敏満寺石仏谷遺跡(多賀町教育委員会 2005年)の分析によると、これらは入手や加工が容易な砂岩などでつくられていて、願主本人ないしは近親者、身近の村内(寺内)の工人あたりが製作したと推定されています。
越前一乗谷の一石五輪塔の増加も、畿内地方の動向に連動するものと思われますが、石造物そのものについては、越前の場合、前代同様笏谷石製で、近江で見られるような粗略品ではありません。笏谷石工によって量産化が進められたと考えられます。
近江の石仏・石塔についてはこちら。
製品の多様化
(図4)でもう一点注目されるのは、当初は「石塔」が90%以上を占めていたものが、天文年間(1532年~1555年)になると、「石塔」と「石仏・その他」の比率が同率から逆転していくことです。
一乗谷の出土遺物の中には多数の笏谷石製品があり、火鉢・バンドコなど暖房関係のものや、盤などの各種調度品、石臼・大平鉢・茶磨・風炉など調理加工関係のものなど多種に及んでいて、日常生活用具として笏谷石が広く使われたことが分かります(福井県 1994年)。
宗教関係では、笏谷石製狛犬が16世紀になって普及していったようです。福井県あわら市の春日神社では永正12年(1515年)、あわら市指中神社では永正14年(1517年)銘の狛犬があります。
狛犬は、江戸時代初期に現在のような石造の参道狛犬の形態が確立したようで、笏谷石製狛犬は、江戸時代を通して製作され広範囲に流通しました。白山狛犬、三国湊狛犬、越前禿(かむろ)狛犬、笏谷石狛犬など様々な名称で呼ばれていたようです
笏谷石製石仏
こうした笏谷石製品の多様化が朝倉時代の大きな特色だと思いますが、(図4)は、紀年銘のある石造物を対象としています。日常生活用具に紀年銘を刻むことはほぼないことから、「石塔」と「石仏・その他」の比率変化は、とくに石仏の増加が要因になっていると思います。

(福井県福井市)
一乗谷朝倉氏遺跡の石仏といえば西山光照寺(写真11)が有名ですが、紀年銘からみると、享禄年間(1528年~1532年)~天文元年あたり以降から増加していて、まさに(図4)の変化と合致しています。
西山光照寺については、投稿済みですが、光照寺出土の石仏・石塔数は、平成30年(2018年)の報告(福井県教育庁埋蔵文化財調査センター 2018年)によると2,110点とのことで、一乗谷朝倉氏遺跡の総数約6,000点の約1/3を占めています。畿内地方では、石龕仏(せきがんぶつ)など総高50cm程度の小型石仏がほとんどあるのに対して(写真10(A))、光照寺の石仏群は、等身大を超えるものも多数あり表現も緻密です。
一乗谷の笏谷石製の石仏・石塔、とくに大型石仏は、光照寺や盛源寺などの天台宗真盛派寺院にまとまっています。同じく天台宗真盛派の越前市の引接寺(いんじょうじ)にも光照寺とほぼ同型の笏谷石製石仏があります。
天台宗真盛派寺院の圧倒的な笏谷石製品数は、足羽山周辺の石工集団と緊密な共存関係を築いていたことによると考えられ、石仏や石塔を介した勧進活動を行っていた可能性があるのではと思っています。
新興の天台宗真盛派は、15世紀末になってから新たに一乗谷に参画した宗派で、寺院もすべて城戸の内の外にあります。朝倉氏の庇護というよりも、一乗谷の人々の強い支持に支えられていたようです(福井県 1994年)。
朝倉時代の笏谷石文化は、一乗谷の繁栄を背景とした民間活力によるものと思われます。
天台宗真盛派本山の西教寺(滋賀県大津市)には、朝倉氏滅亡後の天正12年(1584年)に、近江国栗太郡冨田民部進が、死去した娘の極楽往生を願って寄進した笏谷石製二十五菩薩石仏があります。これは、笏谷石石仏の到達点を示す優品です(写真12)。

(滋賀県大津市)、屋外にあって劣化が進んだため、現在は、書院と桃山御殿を結ぶ廊下に安置されています。拝観は可能です。
この時期の需要の増大は、職能集団からより大きな事業体への変革期となりました。
露頭の笏谷石をもとに専門の石工たちが製品を製作していた段階から、採掘や素材製作の一次加工が組織的に行われるようになっていったと思われます。
量産化とは別に、「越前式荘厳」にもとづく伝統も、江戸時代の大名墓の墓式に引き継がれていきますが、大名墓については次回にまとめます。
産業としての笏谷石
生産体制の変質
江戸時代後期に、福井藩の井上翼章がまとめた『越前国名蹟考』には、「石谷山切石間歩当国の名石なり、壁・橋・柱・樋・火器・水道・仏像・塔・墓皆此れを用う」とあります。石谷山とは足羽山のことで、笏谷石が越前の特産物の一つであったことが分かります。
天正3年(1575年)、柴田勝家は越前北庄城に入ります。そして、勝家は笏谷石生産に積極的に関与し、笏谷石を土木・建築資材として居城である北庄城の築城と城下の整備に用いました。
石瓦(写真13)などの加工製品だけではなく、地覆石・土塀の腰板・石樋・橋脚などの切石、さらには石垣や石垣・土塀基礎の裏込石まで笏谷石を使用したようです。

(福井県坂井市丸岡町)、(B)(C)のやや青みが強いものが笏谷石。

(A)福井市立郷土歴史博物館ジオラマ、(B)北の庄城址・柴田公園復元模型。写真は、@ra_japanさんからご提供いただきました。
【九十九橋】
福井県福井市中央3丁目7
現在の九十九橋です。南側(左岸)に足羽山、右岸東側に北庄城跡と福井城。
城下の整備で象徴的なのは、足羽川に唯一架かる九十九橋(木田橋)で、北半分を木造、南半分を笏谷石の石造橋としました(写真14)。
当時、笏谷石の石工は「石屋」「石切」などと呼ばれ、それを「石屋大工(石入)」がまとめていましたが、勝家は21人(後に25人)の石屋のうち10人を九十九橋の石材加工にあたらせ、残る11人を大石の運搬に配置しました。そして、必要な石材加工ができるまでは、石屋が個人的な仕事を優先させることを禁止し、石屋の差配を石屋大工彦三郎に命じました(福井県 1994年)。朝倉時代までのような、願主の依頼にもとづく個別の受注製作は大きく制約されたと思われます。西教寺の二十五菩薩石仏(写真12)は、勝家の死(天正11年(1583年))の直後ということで可能だったのでしょう。
天正8年(1581年)に北庄城を訪れたルイス・フロイスは、その書簡で「予が城内に進みながら見て最も喜んだのは、城及び他の家の屋根が悉く立派な石で葺いてあって、其色に依り一層城の 美観を増したことである」と称賛しています。

(滋賀県近江八幡市・東近江市)
『信長公記』の天正9年7月11日には、柴田勝家が笏谷石の切石数100枚を安土の信長に進上したとの記事があり、この笏谷石は、現在もなお安土城天主石段踊り場に敷かれています(写真15)。こうしたある種パフォーマンスは、笏谷石を広く周知させ、その価値を高めるのに貢献したと思われます。
勝家の後に入部した丹羽氏、そして結城秀康も、石屋を直接統制しようとしました。
秀康は、足羽山の石間歩(いしまぶ)(坑道)の権利を本多大蔵など上級武士8名に与えています(福井県 1996年)。その経緯詳細は不明ですが、秀康は、慶長6年(1601年)から約6年をかけて「総笏谷石造」の福井城(写真16)を築城していることから、このことに関連している可能性がありそうです

(福井県福井市)
こうした柴田勝家や結城秀康の関与は、笏谷石の生産体制を一変させました。朝倉時代に、笏谷石の採掘から加工、運搬に至る技術、そして組織が事業体として形づくられていったと考えますが、朝倉時代は、おそらく石工(仏師)が営む工房による製品加工が事業体の中心でした。一乗谷の石垣の石材の多くは、一乗谷近郊から産出する安山岩と凝灰角礫岩で、土木・建築資材に笏谷石はほとんど使用されていません。北庄城、福井城の築城は、笏谷石の生産体制の中心を製品加工から、採掘・一次加工に大きく変革させたと考えられます。
江戸時代の流通
結城秀康以降、福井藩による笏谷石生産の直接的な管理・統制は行われていないようです。万治2年(1659年)には、福井藩内に間歩持を許可された石屋が24人、天明2年(1782年)には28人いて、これら石屋が「組」を組織して石の採掘・運送を管理していました。販売については、三国湊の石問屋3軒が独占し、石屋の「組」と生産と販売の交渉を行っていたようです(福井県 1996年)。
笏谷石は、河川の船着き場である「河戸」で石積船に乗せ、足羽川・九頭竜川を下り三国湊から全国各地にも運ばれるようになりました。寛文11年(1671年)に、幕命によって東廻り航路、西廻り航路が整備されますが、笏谷石製品は、それ以前から広域的な交易が行われていました。三国湊の廻船問屋森田弥五右衛門は、元和5年(1619年)に、加賀藩より船5艘の加賀藩内諸浦出入り役免除を与えられています。
山形県鶴岡市椙尾神社には、慶長16年(1611年)銘の石鳥居が、青森県下北半島むつ市の恐山円通寺墓地には、寛永4年(1627年)から元禄年間(1694年)までの五輪塔や地蔵像・石塔・石室・笠塔婆・石鳥居などが20基ほどあります。北海道松前町では、松前藩主や重臣の墓所などに、江戸初期から中期にかけての笏谷石製石廟・墓塔が約460基確認されています(福井県 1996年)。
寛文年間(1661年~1673年)あたりまでは、北海道松前の石廟など、上記のおそらく受注生産にる大・中型製品が多数移出されていましたが、大坂を起点とする西廻り航路が成立すると、日本海側から北海道にも瀬戸内産の花崗岩が流通し、18世紀に入ると高級墓石用石材としての地位を確立して、笏谷石は松前の墓所でも急激に減少します。
代わって唐破風屋根の一石位牌形墓石(写真7(C)手前)が、庶民層への墓石の普及を追い風として「大ヒット商品」(関根達人 2018年)となり、北海道松前から隠岐まで販路を拡大します。唐破風屋根の墓石は、三井紀生氏による「越前式荘厳」(4)にあたりますが、中世を起源とする「越前式荘厳」(1)~(3)とは無関係で、量産品であることなど意味合いも違います。
しかし、唐破風屋根墓石などの小型量産品も18世紀後半になると減少してしまいます。
西廻航路では、復路の年貢米に代わるバラストを兼ねて多くの笏谷石が運ばれていたようで(福井県 1996年)、とくに江戸時代後半期の笏谷石は、大半が土木・建築用、加工用の資材として流通していたようです(三井紀生 2018年)。
福井藩も、寛政7年(1630年)の「沖ノ口法度条々」などによって、三国湊から積み出す石材について、長さ三尺(90cm)を基準とする規格寸法を定めるなど規格化を進めています(福井県 1996年)。
素材としての笏谷石の流通先の利用実態ははっきりしませんが、富山藩主前田家長岡御廟所(富山県富山市)では、藩主墓基壇縁石・拝所敷石・参道などに多量の笏谷石の切石が使用されています。各地で確認されている笏谷石製品も、流通先での加工品を含むと思われます。
江戸時代の笏谷石は、製品の流通が注目されがちで、灯篭・鳥居・狛犬・墓石・石廟などの信仰上のもの、火鉢・ばんどこ(火箱)・風炉・大鉢などの日常の生活用品、石瓦・敷石・石垣・橋脚・石樋・石壁など多彩な製品が各地で確認されています(福井県 1996年)。
しかし、江戸時代の笏谷石の生産体制については、採掘権にあたる「間歩」や出荷・販売の「卸」に関する史料はあるものの、加工職人集団についてはまったくわかっていないようです。おそらくこれは実態通りで、江戸時代とくに後半期の製品製作部門は、生産体制全体の中で付随的なものになっていったと思われます。
中世からの変遷を簡単にまとめると、こんな感じでしょうか。
・中世前半
願主依頼の受注生産 > 露頭採取
・朝倉時代
願主依頼の受注生産+量産品の生産 > 採掘・(一次加工)
・柴田時代
採掘・一次加工 > 量産品の生産+(願主依頼の受注生産)
・江戸前半
採掘・一次加工 > 量産品の生産+(願主依頼の受注生産)
・江戸後半
採掘・一次加工 > (量産品の生産)
笏谷石は、江戸時代に多量に採掘され流通し、越前福井藩に大きな富をもたらしました。しかし、シンボリックな「越前式荘厳」にもとづく伝統と越前の名石「越前青石」としての価値観は多量生産によって損なわれ、近代から昭和そして戦後になり、コンクリートや安価な輸入外国産石材と同じ土俵で争い敗れて需要が減り、1999年に採掘を終えてしまいます。
現在、不要になった笏谷石の回収・再加工・販売によって、笏谷石文化を継承しようとする試みもあるそうです。ただの希少性ではなく、笏谷石もつ歴史的な価値観が見直されることを願ってやみません。
次回の笏谷石概要(2)では、笏谷石の大名墓を取り上げます。
今回の概要編で扱った個々の遺跡、石造物は、それぞれ個別に投稿する予定です。
参考文献は、「笏谷石投稿一覧」にまとめてあります。
2026年5月5日投稿。
