笏谷石 (2)

 

笏谷石概要 (2) 石廟
「越前式荘厳」と大名墓
瑞龍寺 前田利長石廟側壁
(1)  【瑞龍寺 前田利長廟 二十五菩薩(一部)】
(富山県高岡市)

大名墓

笏谷石の歴史は、前稿でまとめましたが、越前国では、柴田勝家の時代から結城(越前松平)時代になると、領主および藩が笏谷石(しゃくだにいし)を「産業」として主導していきました。

一方で、鎌倉時代にさかのぼる笏谷石と「越前式荘厳」は、霊威が宿る地域のアイデンティティとしての価値を失うことなく、大名家一族の墓式として特化されていきました。この墓式は、朝倉家や柴田家、丹羽家、結城(越前松平)家だけではなく、周辺の加賀前田家や若狭の京極家など、広く北陸地方で共有されました。

石廟

前回、「越前式荘厳」について、三井紀生氏による以下の分類を紹介しました(三井 2004年・2018年)。

(1) 月輪の外周に小蓮弁をめぐらせた荘厳形式
(2) 竪連子と格狭聞を組み合わせた荘厳形式
(3) 屋形風石骨粗および石廟
(4) 唐破風屋根を有する墓標

※本稿では、(4)は「越前式荘厳」に含めていません。

個別の特徴や石塔などには、「越前式月輪」、「越前式宝篋印塔」、「越前式石廟」などの名称も使用されています。
このうち、前回紹介しなかった(3)の石廟(せきびょう)は、16世紀に出現し、江戸時代初期には(1)(2)の宝篋印塔とともに大名家一族の墓式に加わります。これも基本笏谷石製です。

堂舎に埋葬する「墳墓堂」は平安時代初期からありますが(関口慶久 2006年)、江戸時代初期、17世紀には、伊達政宗の瑞鳳殿(宮城県仙台市)など各地の大名墓で木造の霊廟(霊屋/廟屋)が建立されます。越前式墓式の石廟はこれに代わるものと考えることもできます。

越前地方に限ると、15世紀後半から16世紀以降に経典や神仏を安置する笏谷石製の石龕(せきがん/石製厨子)が多くの寺社で造立されるようになり、石廟はこれを祖型としたと考えられています(三井紀生 2015年)。

極楽寺 石廟
(2)  【極楽寺 石廟】
(福井県小浜市極楽寺)
極楽寺 石廟内部
(3)  【極楽寺 石廟内部】
地輪に「円戒国師」。真盛上人の諡号です。笏谷石製ではありません。

【極楽寺】
福井県小浜市小浜白鳥4
後瀬山城山麓居館(守護所)の近くにあります。笏谷石には縁のある天台宗真盛派の真盛の弟子真明の開山です。
石廟は本堂の右手奥にあります。
境内の拝観料はありません。
入口付近が駐車場になっていますが、私は別場所に止めました。

墓塔の覆屋となる石造霊屋(石廟)としては、福井県小浜市極楽寺の石廟が天文21年(1552年)の銘をもち、紀年銘を確認できるものとしては最古になります。笏谷石製石廟で、宝形造の屋根は他に例がありません(写真2・3)。

越前式墓式大名墓

笏谷石製の石廟と笏谷石製で「越前式荘厳」の宝篋印塔の組合せを、ここでは「越前式墓式」としておきます。「墓制」というほどの厳格性はないと思います。石廟を欠くもの、石廟と五輪塔の組合せなど、少し曖昧に捉えておきます。

おもな大名(一族)墓は以下の通りです。石塔は年回忌に造立されることも多いので、没年代と造立年代はかならずしも一致しませんが、造立年代が判明しているものは少数です。
寺院の宗派については、造立当時を確認することが難しいため、基本現状です。

【英林塚(一乗谷)(曹洞宗)】福井県福井市 (写真4・5)
・朝倉英林孝景:1481年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:×
 
【旧松雲院(一乗谷朝倉館)(曹洞宗)】福井県福井市 (写真6・7)
・朝倉義景:1573年没、1663年造立
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石

【幡岳寺(曹洞宗)】滋賀県高島市
・柴田勝次(勝家孫):没造立年不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
【総光寺(曹洞宗)】福井県越前市 (写真8)
・丹羽長秀:1585年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:×

【高野山奧之院(真言宗)】和歌山県高野町 (写真9、図1)
・結城(松平)秀康:1607年没造立 
 宝篋印塔:砂岩 塔身- 基礎-
 石廟:笏谷石
 
・長勝院(於万、秀康母):1620年没、1604年逆修造立 (写真9、図1)
 宝篋印塔:砂岩 塔身- 基礎-
 石廟:笏谷石
 
【正覚寺(浄土宗)】福井県越前市 (写真11・12)
・本多吉松丸(結城秀康四男):1609年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
【本満寺(日蓮宗)】京都府京都市上京区 (写真13)
・蓮乗院(江戸鶴子、結城秀康室):1621年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
  
【野田山墓所】石川県金沢市
・前田利家:1599年没、造立不明 (写真14、図2)
 不明:- 塔身- 基礎-
 石廟:笏谷石か
 明治10年石廟等破却
 
・前田利長(拝墓):1614年没、造立不明
 不明:- 塔身- 基礎-
 石廟:笏谷石か
 明治10年石廟等破却
 
・芳春院(まつ、利家室):1617年没、造立不明
 不明:- 塔身- 基礎-
 石廟:笏谷石か
 明治10年石廟等破却
 
・玉泉院(永姫、利長室):1623年没、造立不明
 不明:- 塔身- 基礎-
 石廟:笏谷石か
 明治10年石廟等破却
 
・春桂院(幸姫、利家長女):1616年没、造立不明 (写真16(A))
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石

・前田利貞(利家六男):1620年没、造立不明 (写真16(B))
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
・春香院(千世姫、利家七女):1641年没、造立不明 (写真15)
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
・清妙院(保智、利家九女):1614年没、造立不明 (写真16(D))
 五輪塔:笏谷石 水輪× 地輪×
 石廟:笏谷石
 他
 
【瑞龍寺(曹洞宗)】富山県高岡市 (写真1・17)
・前田利長:1614年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
・前田利家:1599年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
・織田信長:1582年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
・織田信忠:1582年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
・正覚院(信長側室、永姫母):1611年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
【長齢寺(曹洞宗)】石川県七尾市
・前田利家・利長:1599年・1614年没、造立不明
 宝篋印塔:宝篋印塔 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
【清瀧寺徳源院(天台宗)】滋賀県米原市
・京極高次:1609年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
【安国寺(臨済宗南禅寺派)】島根県松江市
・京極高次:1609年没、1634-37年造立
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:×
 
【常高寺(臨済宗妙心寺派)】福井県小浜市
・常高院(浅井初、高次室) :1633年没、造立不明
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:×
 
【妙心寺春光院】京都府京都市右京区
・堀尾泰晴(吉晴父):1599年没、造立不明
 宝篋印塔:出雲石 塔身× 基礎×
 石廟:笏谷石
 
【林泉寺(曹洞宗)】新潟県上越市
・堀秀政:1590年没、造立不明
 五輪塔:笏谷石 地輪越前月輪
 石廟:×

 
【大安寺(浄土宗)】新潟県佐渡市
・大久保長安:1613年没、1611年逆修造立
 宝篋印塔:笏谷石 塔身越前 基礎越前
 石廟:笏谷石
 
【法幢寺(曹洞宗)】北海道松前町
・松前公廣:1641年没、造立不明
 五輪塔:笏谷石 水輪× 地輪×
 石廟:笏谷石
 
・松前氏廣:1648年没、造立不明
 五輪塔:笏谷石 水輪× 地輪×
 石廟:笏谷石
 
・松前高廣:1665年没、造立不明
 五輪塔:笏谷石 水輪× 地輪×
 石廟:笏谷石

朝倉家

現在、一乗谷で確認できる朝倉氏当主墓は、寛文3年(1663年)になって造立された朝倉館の朝倉義景墓をのぞくと、越前7代英林孝景の英林塚のみです。これは朝倉館の南東隅付近にあります。笏谷石製の宝篋印塔で、典型的な「越前式荘厳」の塔身装飾・基礎装飾をもちます。国主の越前式宝篋印塔としては最古になりますが、本塔の製作年が没年の文明13年(1481年)までさかのぼるものかどうかは不明です。
ただ、一乗谷朝倉氏遺跡では、圧倒的に五輪塔が多いことから、宝篋印塔は特別視されていた可能性もありそうです。

英林塚 朝倉英林孝景 宝篋印塔
(4)  【英林塚 朝倉英林孝景 宝篋印塔】
(福井県福井市一乗谷朝倉氏遺跡)
英林塚 朝倉英林孝景 宝篋印塔部分
(5)  【英林塚 朝倉英林孝景 宝篋印塔】
各装飾は四面に彫られています。相輪と基礎下部は後補です。笠のバランスも悪いような気がします。
朝倉義景石廟
(6)  【朝倉義景 石廟】
(福井県福井市一乗谷朝倉氏遺跡)朝倉館内にあります。(C)の背面に造立年の寛文三年銘。
朝倉義景宝篋印塔
(7)  【朝倉義景 宝篋印塔】
丹羽長秀

丹羽長秀は、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉方として参陣しました。戦後越前および加賀半国を与えられ、柴田勝家の居城であった越前北庄に入部しました。
天正13年(1585年)4月、死去。「越前式荘厳」の宝篋印塔です(写真8)。
総光寺は、一時廃寺となったようですが、結城秀康の時代に再興されたそうです。ただし、場所は移動しているとのこと。
左の宝塔は、長秀次男の長正の墓だそうです。関ヶ原の戦いでは西軍に与し、その後、豊臣秀頼に仕えたようです。寛永7年(1630年)4月、越前福井にて死去。笏谷石製です。

総光寺 丹羽長秀 宝篋印塔
(8)  【総光寺 丹羽長秀 宝篋印塔(右)】
(福井県福井市)

【総光寺】
福井県福井市つくも2-16-3
墓所は総光寺の裏手(東側)、道路に面しています。
駐車場はありません。
徒歩圏内に、柴田勝家、橋本左内の墓所があります。

結城(越前松平)家

大名家の越前式石廟は、高野山奧之院にある結城秀康廟と秀康母の長勝院廟が最古になります(写真9)。越前から持ち込まれた笏谷石製で、仏・菩薩・天人などの浮彫像は、越前式石廟の最高傑作といわれ、国重要文化財にも指定されています。
内部の石塔は宝篋印塔ですが、詳細は不明。砂岩製とのことで、高野山側の石工によると思われます。全面金箔の豪華なもののようです(木下浩良 2014年)。ここには秀康の頭髪が納められています。

高野山奧之院 結城秀康・長勝院 石廟
(9)(図1)  【高野山奧之院 結城秀康・長勝院 石廟】
(和歌山県高野町)、(A)右が秀康石廟、左が長勝院石廟(B)秀康石廟。(図1)は(松原典明 2024年)からの引用です。左が秀康石廟、左が長勝院石廟。

秀康の墓所は、現在越前松平家菩提寺の大安禅寺(大安寺)(福井県福井市)にあります(写真10)。ただし、大安禅寺は第4代藩主光通が万治元年(1658年)に創建した寺院で、墓所の千畳敷は総笏谷石造ですが越前式墓式ではありません。
秀康は、慶長12年(1607年)に死去しますが、当初は結城家菩提寺の孝顕寺(茨城県結城市)に埋葬されます。その後徳川本家の意向で、足羽山山麓の孝顕寺(福井県福井市)に改葬されたようで、その段階の墓式は越前式であった可能性もありそうです。

大安禅寺 千畳敷 越前松平家廟所
(10)  【大安禅寺 千畳敷 越前松平家廟所】
(福井県福井市)、結城秀康墓は奥の正面。いずれも高さ約4mの位牌形の巨碑です。敷石や柵などすべて笏谷石製です。

【大安禅寺】
福井県福井市田ノ谷町21-4
現在、令和の大修理が行われているため、堂宇の拝観は制限があります。
千畳敷は、山道を10分ほど登ります。
拝観時間 9:00~17:00(最終16:30)
拝観料 大人500円
無料駐車場があります。

越前式墓式の越前松平家当主墓は、高野山奧之院の石廟以外にありませんが、秀康四男の本多吉松丸(写真11・12)、秀康室の蓮乗院(鶴子)(写真13)は越前式です。

正覚寺 本多吉松丸(結城秀康四男) 石廟
(11)  【正覚寺 本多吉松丸(結城秀康四男) 石廟】
(福井県越前市)
正覚寺 本多吉松丸(結城秀康四男) 宝篋印塔
(12)  【正覚寺 本多吉松丸(結城秀康四男) 宝篋印塔】
石廟壁面に蓮華花葉文が描かれています。宝篋印塔にも彩色がありそうです。

【正覚寺】
福井県越前市京町2-1-8
越前国守護斯波(足利)高経が築城した新善光寺城の跡地とのこと。山門は府中城の表門を移築。
境内の拝観料はありません。
正面から一本西側の道路を北に折れると参拝者駐車場(無料)があります。

本満寺 蓮乗院(結城秀康室) 石廟
(13)  【本満寺 蓮乗院(結城秀康室) 石廟】
(京都府京都市上京区)、近年修復工事が行われ、扉が付けられたため、現在は内部を拝観することができません。内部壁面には、厚肉の六体の仏像と蓮華花葉の彩色があるようです。蓮乗院は秀康死去後、公家の烏丸光広と再嫁しています。

【極楽寺】
京都府京都市上京区鶴山町16
織田信長・信忠墓所のある阿弥陀寺の隣接地です。
墓地には山中鹿之介幸盛の供養塔があります。
境内の拝観料はありません。
駐車場はあったと思いますが、詳細不明。

前田家(野田山墓所)

前田家も、「越前式荘厳」にもとづく墓式(越前式墓式)を選択しています。
加賀藩主前田家の墓所は、石川県金沢市の野田山に営まれました。一辺が約20mにもなる方形墳丘墓群は、まるで古墳時代終末期(飛鳥時代)の方墳群のようです(写真14)。
藩主墓所エリアの全体図はこちら

万治元年(1658年)に死去した加賀藩2代藩主(加賀前田家3代)利常墓以前は、「野田山御廟之図」によると、墳丘前に石廟を設けていたようで、利家(高徳院)廟の立面図も残っています(図2)。
残念ながら15代利嗣が、明治7年(1874年)に前田家の祭式を仏式から神式に改め、菩提寺を廃し、霊堂・位牌などを撤去。明治10年には、野田山の石廟を破却し、新たに石碑と鳥居を建立してしまいました。
利家廟の造立が利家の没年である慶長4年(1599年)だとすると、結城秀康・長勝院廟によりも古くなります。
なお、破却された石廟は、周辺に埋められたようなので、いずれ発見される可能性もあります。

野田山加賀藩主前田家墓所 前田利家墓
(14)  【野田山加賀藩主前田家墓所 前田利家墓】
(石川県金沢市)
野田山加賀藩主前田家墓所 絵図
(図2)  【野田山加賀藩主前田家墓所 絵図】
(金沢市 2008年)から。下の石廟図の註書きは、高徳院(利家)、瑞龍院(利長)が併記されています。同型なのか詳細は不明。

当主(夫妻)直系から外れ、破却をまぬがれた春桂院(利家長女)、春香院(利家七女)、前田利貞(利長六男)らの石廟が現存しています(写真15・16)。

野田山加賀藩主前田家墓所 利家七女千世墓
(15)  【野田山加賀藩主前田家墓所 利家七女千世墓】
野田山加賀藩主前田家墓所石廟
(16)  【野田山加賀藩主前田家墓所 石廟】
(A)利家長女幸廟、(B)利家六男利貞廟、(C)利家重臣奥村栄明廟、(D)利家九女模智(保智)廟。模智廟のみ五輪塔、他は越前式の宝篋印塔が納められています。

【野田山墓所駐車場】
石川県金沢市野田
山頂部の前田利家墓に最も近い無料駐車場です。加賀藩主と家臣団墓所が広範囲に分布しています。
拝観料は必要ありません。

前田家(瑞龍寺)

前田利長が隠居の地とした富山県高岡市の瑞龍寺にも、典型的な「越前式墓式」があります。
曹洞宗高岡山瑞龍寺は、加賀藩初代藩主(加賀前田家2代)利長の菩提を弔うために2代藩主利常によって建立されました。
その法堂の裏に、前田利長、前田利家、織田信長、信長側室正覚院、織田信忠の石廟があります(写真17)。
とくに利長廟の壁面に刻まれた二十五菩薩は精巧・優美で、笏谷石工職人の高度な技術レベルを見ることができます(写真1)。
利長廟以外は、正覚院廟が小型であることをのぞくとほぼ同型で、同時期に造立されたと思われますが、造立年代は不明。

瑞龍寺 石廟
(17)  【瑞龍寺 石廟】(富山県高岡市)
(B)(C)前田利長廟。

利常は、正保2年(1645年)に利長の墓所と菩提寺となる瑞龍寺の整備に着手し、瑞龍寺は利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃に完成しました。松原典明氏は、石廟の年代の上限を瑞龍寺着工の正保2年としていますが(松原典明 2024年)、瑞龍寺には前身寺院の太白山法円寺がありました。法円寺は、慶長10年(1605年)に富山城に隠居した利長が、宝円寺三世広山和尚を開山として、父利家と織田信長・信忠親子らの菩提を弔うために富山に建立した寺院で、利長隠居所の高岡移転にともない、利長死去の前年にあたる慶長18年(1613年)に高岡に移されました。
利長の死後、亡骸は法円寺に葬られたと伝わります(高岡市市史編纂委員会 1959年など)。

石廟群は、瑞龍寺主要伽藍の主軸方位と一致していないことから、法円寺時代に造立された可能性が高いと考えます。信長側室の「正覚院殿桂岩清香大禅定尼」は、利長の正室で信長四女永姫(玉泉院)の生母です。永姫(玉泉院)が石廟の造立に関与したとすると、永姫没年の元和9年(1623年)以前にさかのぼることになります。寛政11年(1799年)に編纂された『越中國高岡山瑞龍記』では、慶長18年(1613年)の造営としているようです(三井紀生 2015年)。利長廟については、利長の当初の法円寺墓所に造立された可能性もあるのではないかと考えています。

法円寺はその後、利常によって利長の院号の瑞龍寺に改名され、大規模な改修が行われました。利長の現在の墓所も、利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)に造営されたものです。瑞龍寺と長い参道でつながっている利長の墓所は、大名個人墓として全国でも最大級の規模をもちますが、越前式墓式ではありません。笠塔婆は花崗岩製で、狩野探幽の下絵と伝承される蓮華図が陽刻された基壇石も、加賀で産出する戸室石が使用されています。野田山墓所を含め、前田家では、利常の段階で越前式は終焉します。

【瑞龍寺】
富山県高岡市関本町35
仏殿、法堂、山門が国宝に指定されています。
石廟は、法堂の裏にあります。
拝観時間 9:00~16:30(最終16:00)
拝観料 大人500円
入口に駐車場があります。

京極家他

江戸時代初期に若狭国主となった京極家も、越前式墓式を採用しています。京極家は、若狭小浜から出雲松江に転封しますが、島根県松江市の安国寺にも越前式墓式の宝篋印塔を造立しています。笏谷石製です。
京極家については、別稿1 別稿2 別稿3でまとめています。

上記表にある堀尾氏は、北陸とは縁遠いように思っていましたが、吉晴父泰晴が死去した慶長4年(1599年)当時、吉晴は本拠の遠江浜松城を隠居し、越前府中に隠居料5万石を与えられ転居していたようです。

越後の堀氏の墓石は、笏谷石製ですが五輪塔で、地輪に越前式月輪を彫っています。
越前・加賀・若狭を中心として、周辺地域にいくにしたがって墓式は崩れています。

「越前式墓式」の拡散と終焉

中世の越前国と周辺地域では、笏谷石を用いたシンボリックな装飾(越前式荘厳)にもとづく固有の文化を形成しました。これは、大名や宗派をこえ、地域のアイデンティティとして共有されました。その最終型が今回紹介した近世大名墓です。

越前式墓式は、朝倉家や柴田家、丹羽家、結城(越前松平)家だけではなく、周辺の加賀前田家や若狭の京極家など、広く北陸地方で共有されます。
墓標形式や文様が広範囲に普及することは、宝篋印塔の関西形式・関東形式のように普通にありえることですが、「越前式荘厳」は越前産の笏谷石と一体的で、おそらくほぼすべてが笏谷石を産出する足羽山山麓(福井県福井市)で製作されたと考えられます。「越前式荘厳」は笏谷石であることに意味があったと思われます。ただ、越前国主はともかく、隣接国の大名家、それも加賀前田家のような大大名家までもが採用したということは、笏谷石はただの特産品ではありえません。
京極家は、移封先の島根県松江まで取り寄せています。結城家や堀尾家は京都や高野山まで移送しています。高野山の結城秀康廟や瑞龍寺前田秀長廟の彫刻には、技術レベルの高さを感じますが、松江の京極高次安国寺塔などは、技術的にわざわざ取り寄せなければならないようなものではないと思います。他に理由があったのでしょう。

笏谷石(1)の投稿で、足羽山山麓への笏谷石石工定着の背景に白山信仰にもとづく需要が背景にあったことを想定しました。白山宗徒は、戦国時代に一向宗に敗れ多くの社寺は焼き討ちに遭っています。加賀では、前田利家が白山比咩神社(石川県白山市)の復興を助け中興の祖といわれているようです。ただ、「越前式荘厳」と白山信仰を直接結びつける根拠となるものは確認できません。

そうなると、朝倉家以来の国主のステータスだったのか、正直謎です。
鎌倉時代を起源として成立する「越前式荘厳」には、大名家や宗派を超えた地域に由来する価値を内包していたと考えますが、その価値観が鎌倉時代を起源として一貫したものであったのかどうかは不明です。ただの伝統とは思いたくありませんが。

大名墓における「越前式墓式」は、17世紀前半を中心に盛行し、その後終焉に向かいます。
17世紀後半から18世紀初頭は、各地の大名墓で、木造霊屋が廃止され、墓標は宝篋印塔や五輪塔などの墓塔(石塔)から墓碑へ変化しますが、北陸地方での「越前式墓式」の終焉もおおむねこれに連動します。「越前式墓式」の終焉は、「越前式荘厳」の終焉でもありました。

「越前式荘厳」とは、なんとも謎めいたシンボルです。

補足

北陸地方での終焉と相前後して、北海道の松前藩で「越前式墓式」が採用され、19世紀前半まで墓式として継続します(写真18)。ただし、石塔は宝篋印塔ではなく五輪塔で、越前式月輪など、シンボリックな装飾は認められません。石廟の石材も、しだいに笏谷石から瀬戸内産の花崗岩製へ変化していきます。
これについては、あくまでも交易にもとづくものだと思います。

松前藩石廟
(18)  【松前藩主松前家墓所石廟】(北海道松前町)
(A)左から1・4番目の石廟は花崗岩(斑岩)、他は笏谷石。内部の五輪塔は、左から1番目のみ花崗岩(斑岩)、他は笏谷石。(B)6代藩主矩広廟、五輪塔・石廟とも笏谷石、(C)7代藩主邦広廟、五輪塔・石廟とも笏谷石。

【松前藩主松前家墓所】
松前藩主松前家墓所は、松前城(福山城)の北、寺町の一角にある曹洞宗大洞山法幢寺にあります。
松前藩では、1630年代に有力家臣らが反屋根平入りの笏谷石製石廟を採用しています。
松前藩主が石廟を採用したのは、松前家7世(2代藩主)公廣の没した寛永18年(1641年)で、その型式の切妻妻入りの石廟でした。加賀藩などで使用されなくなった後も、1760年代までは笏谷石製石廟が認められます。ただし、17世紀後半からは、瀬戸内産の花崗岩(御影石)に置き換わっていきます。
国指定史跡です。
松前家墓所の石廟は総数23基ですが、松前藩では重臣を中心に数多くの石廟が造立されています。

(佐藤雄生 2013年他)

【松前藩主松前家墓所】
松前郡松前町松城341
松前城(福山城)駐車場から歩きました。北500mほどです。
墓所境内は無料です。

越前・若狭でも、小型化した一石入母屋形屋根の石廟が、土豪や有力町人によって18世紀まで営まれたようです。そのさきがけとなったのは三国湊の豪商森田家で、性海寺(福井県坂井市三国町)の森田家墓所には、小型の別石五輪塔、一石五輪塔を納めた笏谷石製の石廟が多数あり(写真19)、1600年前後から最古は弘治3年(1557年)銘をもつようです(関根達人 2011年)。そうなると、最初に紹介した極楽寺石廟とほぼ同時期になります。

性海寺
(19)  【性海寺 森田家墓所】
(福井県坂井市三国町)、森田家は、織田信長の越前侵攻に船舶の調達を行い、加賀前田家の藩米の輸送も任された特権的な廻船問屋です。所在地図は笏谷石(1)にあります。

出雲でも、地元の来待石を使用した石廟製作が行われていますが、これは堀尾吉晴による石廟の導入を契機としている可能性があります。

石廟墓は、関東を中心に東日本各地にも認められます。一部は大名墓に採用されていますが、これらは越前式とは無関係です(写真20)。
各地の状況については、関根達人氏の論考を参考にしました(関根 2011年)。

その他の石廟墓
(20)  【その他の石廟墓】
(A)~(C)頼岳寺(長野県茅野市)、(A)(B)高島藩初代諏方賴水石廟、(D)林泉寺(山形県米沢市)直江兼続夫妻石廟墓。

ここで取り上げた墓所は、個別に投稿していく予定です。
参考文献は、「笏谷石投稿一覧にまとめてあります。

2021年3月(瑞龍寺)、2025年11月(極楽寺)、2024年3月等(一乗谷朝倉氏遺跡)、2025年11月(総光寺)、2016年5月(高野山奧之院)、2025年11月(大安禅寺)、2025年11月(正覚寺)、2026年3月(本満寺)、2021年3月(野田山墓所)、2023年6月(松前家墓所)、2021年3月(頼岳寺)、2019年5月(米沢林泉寺)現地。2026年5月24日投稿。