西洋式城郭 稜堡式と多角式

嘉永7年(1854年)竣工。
幕末の城 概要
新シリーズ第1回目です。
江戸時代、幕府は一国一城令といった築城規制など、各藩に対して軍事力の抑制政策をとってきました。
しかし、19世紀になり異国船が頻繁に出没するようになると、「天下泰平」は大きく動揺します。異国を実感することによって改めて「国体」が意識されるようになり、海防から尊皇攘夷運動、そして倒幕、戊辰戦争の内乱に連鎖していきました。そこに西洋式を始め新たな「城郭」が築かれました。
ここで対象とする「城郭」とは、新たに築かれた藩主居城、沿岸警備のための台場、戊辰戦争の野戦陣地などです。とくに「台場」は、全国で1,000基以上が築かれました(西ヶ谷恭弘(編) 2002年)。幕府や各藩が異国船の打払いを目的として築いた「沿岸台場」がほとんどですが、野戦陣地もこの時代は「台場」と呼ばれていました。
台場には、丸岡藩砲台跡(梶台場)(福井県坂井市)(写真2)のような土塁(胸墻)と砲眼のみのシンプルなものから、品川台場(東京都港区・品川区)(写真10)や高崎台場(兵庫県洲本市)など城壁を備えた本格的な「城郭」までさまざまです。

嘉永5年(1852年)竣工。
各藩の藩主居城にもこの時期築かれたものがあります。松前城(福山城)(北海道松前町)や福江城(石田城)(長崎県五島市)は海防強化のため幕命によって築造されました。一方、長州藩の山口城(山口御屋形/山口藩庁跡)(山口県山口市)(写真3)、長州藩支藩長府藩の勝山御殿(山口県下関市)(写真4)は、攘夷を藩是とした長州藩(長府藩)が、攘夷戦に備えて藩主避難のため内地に築いた城です。福岡藩の犬鳴御別館(福岡県宮若市)を含め、これらは幕府に無許可で築いたため、「屋形」「御殿」「別館」といった名称が使用されました(九州歴史資料館 2018年)。

元治元年(1864年)竣工。(A)(B)旧山口藩庁門。幕末期の城門が破却され、新たに藩庁門として建築されたもの。(c)水堀と石垣。

文久3年(1863年)竣工。

元治元年(1864年)竣工。北側の田口城跡展望台から。

(A)稜堡、(B)凹辺、(C)石垣跳出。

龍岡城大工棟梁堀内家伝承図(佐久市教育委員会 2014年)から。砲座は北西隅先端(図左)の一か所のみで、せっかくの稜堡式ですが、十字砲火は考えられていません。
他に、箱館奉行所として築かれた五稜郭(北海道)(写真8・9、図3)があります。龍岡五稜郭と称される龍岡城(長野県佐久市)(写真6・7・図1)も慶応3年(1867年)竣工の幕末期の城です。龍岡城は、三河国奥殿藩の藩主松平乗謨が、幕府に分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を得て築いたもので、正式な名称は「田野口陣屋」です。現況図はこちら (佐久市埋蔵文化財調査報告書 2013年)。
幕末期には、戦国時代とは違うこの時代を象徴するような個性的な城が多数築かれました。
西洋式(稜堡式)城堡
五稜郭と龍岡城は、幕末期を特徴付ける西洋式築城術にもとづく稜堡式・星形の城郭です。
稜堡式城堡(要塞/城郭)は、15 世紀イタリアで発祥した対銃砲戦の築城法です。今回対象とする稜堡式の中には、「城郭」のイメージとは異なる陣地的なものも含むことから、ここでは用語として主に「城堡」を使用しておきます。

フェイス(稜堡前面の斜辺)からの砲撃で十字砲火を行い、フランク(後面)から接近する敵兵を側射します。なお、ここでは五稜郭を例にしましたが、五稜郭は、完成時大砲は配備されていません。
稜堡式城堡は、「稜堡(りょうほ)」(bastion)を設け(写真7)、塁線ラインを突角(稜堡)と凹辺(角)で構成することによって、外壁ラインの死角を解消するとともに、稜堡間の連携によって、効果的な砲撃手段である十字砲火を可能としました(図2)(時田太一郎 2024年)。西欧では稜堡はしだいに重層的に築かれるようになりますが(動画)、稜堡のうち、稜堡間の凹辺に重ねて築かれた独立堡(ravelin)は「半月堡(三月堡)」と訳されています(写真8・9)。
外壁ライン防備のコンセプトは、和式の「横矢掛かり」と基本同じです。

慶応2年(1866年)竣工。



稜堡式は、西欧を中心に、戦場で銃砲の使用が一般化する16世紀以降、17世紀前半をピークとして、旧来の城郭や都市囲郭などの外縁に稜堡を増設することで普及・増加していきました(動画)。そして、砲撃によるダメージを軽減するために、城壁を高石壁から低土塁にして全体の低重心化(写真9)を図るなど、火砲の進化とともに機能的発達を遂げました。
しかし、18世紀になり、製鉄技術の向上によって鋳鉄から鋳鋼製の大砲の製造が可能になるなど技術的革新が進むと、遠距離砲撃の砲戦が野戦の中心となります。外壁周辺での交戦機会は減少し、稜堡からの側射援護(横矢掛かり)の必要性は低下します。そうなると、重層化した複雑な稜堡や半月堡は、維持費だけがかさむ無用の長物になってしまいました。
城堡の形状は単純化を指向するようになりました。従来の拠点的な稜堡式城郭・都市囲郭では、その外周に方形堡、五角形堡など単純多角形の砲撃に特化した城堡群を衛星的に配置する「分派堡」が構築されるようになりました(時田太一郎 2025年)。品川台場(写真10・11、図4)に採用された「間隔連堡」(図5)も、城堡間の連携による十字砲火で砲戦の制することを目的としています。

フジテレビ球体展望室はちたま から。

国土地理院提供、昭和22年(1947年)アメリカ軍撮影。

国土地理院地形図を下図として、(品川区立品川歴史館 2011年)を参考に作成。

(品川区立品川歴史館 2011年)からの転載。
榴弾を高仰角の曲射弾道で射撃する曲射砲の使用が一般化し射程を延ばしてくると、直射砲(平射砲)には有効であった低重心土塁も無力化します。砲弾が城壁を乗り越えてしまうことで、複雑で堅牢な城郭を築くこと自体の意味が失われていきました。
多角式城堡の出現は、城郭(要塞)から砲台が分離独立していく過程としてとらえることもできそうです。
19世紀、日本で西洋式築城術を習得しようとした時期は、世界的に見ると「城の時代」の終焉期にあたりました(時田太一郎 2024年)。
西洋式築城術の導入
幕府は、嘉永6年(1853年)のペリー来航後、海防に関わる洋書の収集・翻訳と研究の必要性を痛感し、洋学所(蕃書調所)を開設しますが、それ以前から海防に強い問題意識をもち、砲術や築城術・兵法などに関する洋書の収集・翻訳を積極的に行っていたのが幕臣で伊豆韮山代官の江川英龍(ひでたつ)(坦庵/たんあん)です。江川家は、東国の幕府直轄領を支配する旗本で、韮山代官を代々世襲していました。その管轄範囲は駿河国・相模国・武蔵国から甲斐国に及び、石高は5~10万石余でした。
英龍は、長崎の町年寄で洋式砲術家であった高島秋帆に師事し、高島式砲術の幕府採用に尽力します。そして、天保14年(1843年)には、代官にありながら幕府鉄砲方に登用され、ペリー来航で混乱する嘉永6年(1853年)には、勘定吟味役格海防掛となり、品川台場築造を差配しました。
嘉永3年(1850年)に韮山に訪れた佐賀藩士本島藤太夫は、英龍がフランス人、ニコラ・サヴァール(サハルフ)の築城書(『築城術入門』)の蘭訳本を翻訳したり、それにもとづく六稜堡の部分模型を製作していたことを記録しています(淺川道夫 2009年)。六稜堡の模型は、老中阿部正弘と佐賀藩主鍋島直正(斉正)に献上されますが、現在江川邸(静岡県韮山市)にも残されています(写真12)。

また、大鳥圭介にはオランダ人ヘンケル・ベルツの築城書、『築城典刑』の翻訳を命じたりしています(図6)。
英龍が収集した資料の多くは現在も残されていて、主要資料は韮山代官江川家関係資料(江川文庫)として国重要文化財に指定されています。なかには、大鳥圭介直筆の『築城典刑』もあるとのことです。

吉母波百児著、大鳥圭介訳『築城典刑』5巻(前篇2冊後篇3冊)2 陸軍所 元治元年(1864年)(国立国会図書館デジタルコレクション)から。
英龍は、そうした知識を普及させるために「韮山塾」を開講しますが、最初の門人には松代藩から派遣された佐久間象山もいました。
佐久間象山が後に開講した洋学塾「五月塾」の門下生には、日本で最初の稜堡式城堡である戸切地陣屋(北海道北斗市)を設計した藤原重太(主馬)(松前藩)と、五稜郭を設計した武田斐三郎(1827~1880年)(伊予藩→幕臣)が同期で在籍していました。英龍が設計した品川台場、そして戸切地陣屋、五稜郭は、いずれもサヴァール教本をベースにしていたと推定されています(淺川道夫 2009年、時田太一郎 2024年)。
英龍と象山は不仲だったようですが、象山を介して日本の西洋式築城術はつながっていたようです。
ただ、当時西洋式築城術に対する理解はこうした一握りの人たちをのぞくと低く、五稜郭も施工から運用段階には武田斐三郎の設計思想と大きく異なるものになっていきました。半月堡は5か所から1か所になり(図7)、それも和式城郭の馬出に転用され、当時から「馬出塁」とよばれていました(時田太一郎 2024年)(写真9)。和式解釈の混在です。また、低重心を基本としているのにもかかわらず、奉行所庁舎には和式の櫓を意識したような太鼓櫓が建造され、箱館戦争では、新政府軍の砲撃の標的となってしまいました。そもそも、箱館奉行所時代には大砲すら配備されていませんでした。

(A)「五稜郭絵図」(初年度設計図)、(B)「箱館柳野御陣営之図」(函館市教育委員会 2011年)から。
品川台場(第三台場)や五稜郭、人吉城(熊本県人吉市)の石垣の「跳出/槹出(はねだし)」についても、現在、「西洋式の武者返し」とされていますが、西洋式での本来の機能は雨水による壁面や土塁へのダメージを軽減するものだそうです(時田太一郎 2025年)。いつの段階で「武者返し」と解釈されるようになったのかは不明。跳出については、林子平の著した『海国兵談』(寛政3年(1791年)刊行)に図入りで解説があり、「朝鮮国の城々にこの石垣多しと聞けり」とあるようなので、一口に西洋式とすることもできないようです。
稜堡式と多角式
幕末の城(台場)には、「稜堡式」の影響が認められるものと、品川台場のような凹辺(角)のない「多角式」があります。
しかし現在、この時期の城郭(台場)は、西洋式城郭=稜堡式城堡(要塞/城郭)として、西洋式、稜堡式が拡大解釈される傾向が認められます。
山口城(山口御屋形/山口藩庁跡)(写真4)や六角形の由良台場(鳥取県北栄町)(写真13)なども稜堡式と呼ばれることがあります。

文久4年(1884年)竣工、(C)現地解説板から。
また、稜堡式城堡(要塞/城郭)=星形要塞と解される場合もありますが、明治3年(1870年)に完成した上総松尾城(千葉県山武市)は、稜堡式であっても正多稜形の星形ではありません(図8)(松尾町史編さん委員会 1983年)。世界的に見ても、稜堡式城堡(要塞/城郭)(Bastion Fort)はかならずしも星形要塞(Star Fort)ではないようです(動画)(時田太一郎 2025年)

(松尾町史編さん委員会 1983年)から。
稜堡式
稜堡式の「稜堡」を限定的に用いると、菱形の突出部ことで、フェイス(稜堡前面の斜辺)からの砲撃で十字砲火を行うこと、フランク(後面)から接近する敵兵を側射援護することを目的とした堡塁です(図2)。
一応ここでは、菱形にこだわらず、鋭角の突出部から構成されるもの、ないし、突出角と凹辺から構成されるものを「稜堡式」としておきます。ただし、稜堡式の影響かどうか判断しかねる塁線の「折れ」をもつものもいくつかあります。
多角式
品川台場(図9)や由良台場(写真13)のように、凹辺・凹角のない四角・五角・六角といった単純な多角形を「多角式」と呼んでおきます。
「多角式」ないし「多角形」は、多くの著作で使用されていますが、どうも一般的な呼称で限定的に使用されてはいないように思えるのですが、どうでしょうか。やはり、稜堡式とは明確に区別しておく必要があると思います。
いずれにしても、多角式の出現には先に書いたような火砲の進化にともなう歴史的な経緯があり、ただの稜堡式の簡略形ではありません。多角式は、西欧では砲戦が中心となる時期に出現する「城郭」というよりもそこから分化した「砲台」です。

(勝安芳 1989年)から。
西欧における「稜堡式」と「多角式」は、歴史的な段階が異なり時間差をもって出現しますが、同時に伝えられた日本では、機能差として考えられていた可能性があります。
西欧で砲戦が中心となる以前に考案された「稜堡式」は、歩兵による野戦が想定される「陸上台場」として、「多角式」は、艦砲射撃に対する砲戦が中心となる「沿岸台場」として区別されていたと思われます。あるいは、「稜堡式」は城郭で、「多角式」は砲台なのか。
武田斐三郎がほぼ同時期に設計した内陸の五稜郭が稜堡式であるのに対して、箱館港に築かれた弁天台場(弁天岬台場)(北海道函館市)(図10)は多角式です。斐三郎は、両者を明確に区別していたと考えられます。
こうしたことが、サヴァール教本などにどう書かれているのか確認できませんが、いずれにしても和式の解釈を含んでいるのでしょう。

(北海道庁 1918年)から。
【弁天台場跡】
北海道函館市弁天町20
幕府が、箱館湾口の警衛のために、安政3年(1856年)から約8年をかけて築造。明治29年(1896年)の港湾改良工事で解体されました。築石の一部は函館漁港の石積防波堤に転用され現在も残っています。
品川台場については、江川英龍が製作した六稜堡の模型(写真12)の存在から、当初設計段階には稜堡式だったものが、工期的な制約から多角式に変更されたとする意見もかつてはあったようです。しかし、英龍の参考にした教本からみて、当初から多角式の台場群を想定していたと考えられています(淺川道夫 2009年)。英龍は、先に書いたサヴァール教本(図5)とともに、J.M.エンゲルベルツの海防理論教本(『沿岸防衛論』)などを参照したようで(時田太一郎 2025年)、『江川氏秘記』には、「台場之義ハ エンゲルベルツ ノ製城書ニ所載ノ 間隔堡ノ内「レドウチン」ノ「リニー」ト申堡ニテ」と「間隔堡」が明記されています(淺川道夫 2009年)。
ただ、沿岸台場にも、和田岬台場(兵庫県神戸市)、天保山台場(大阪府大阪市港区)、神奈川台場(神奈川県横浜市)など稜堡式があり、稜堡式と多角式の使い分けが共通認識としてあったわけではなさそうです。
また、多角式も、「台場群」として設計施工されたのはおそらく品川台場だけで、基本は単独の台場として築かれました。台場群であっても、設計段階から十字砲火を加味して設置されてはいないと思います。

明治17年(1884年)竣工。(A)GoogleEarthから、 (B)水濠越し、(C)内部(砲座)。
なお、幕末の台場の一部は、高崎台場(兵庫県洲本市)のように明治時代に陸軍の砲台・堡塁として使用されますが、新規に築かれたものにも富津元洲堡塁砲台(千葉県富津市)(写真14)のように多角式を踏襲しているものがあります。
次回は、主要地域の沿岸警備の状況と台場群、戊辰戦争の陣地などを紹介します。
今回は、おもに(淺川道夫 2009年)、(品川区立品川歴史館 2011年)、(後藤敦史・高久智広・中西裕樹(編) 2018年)、(九州歴史資料館 2018年)、(時田太一郎 2024年)、(時田太一郎 2025年)を参考にさせてもらいました。
参考文献は「幕末の城投稿一覧」にまとめてあります。
小浜藩松ヶ瀬第2台場・丸岡藩砲台跡2023年3月、松前城2023年6月、山口城・勝山御殿2019年11月、龍岡城2018年11月・2025年4月、五稜郭2017年6月、品川台場2025年10月、由良台場2025年4月、富津元洲堡塁砲台2024年2月現地、2026年8月14日投稿。
