軍艦島(端島炭鉱) (2)

 

軍艦島上陸クルーズ上陸顛末(2) 上陸編
ドルフィン桟橋左手
(1)  【護岸壁】
ドルフィン桟橋から左手。「天川(あまかわ)工法」で築かれた明治40年(1907年)築の護岸壁です。
(C)の通路奥に見える金網の扉は、30号棟につながっている地下通路(トンネル)(写真8)の入口です。現在は立ち入り禁止で、見学路は金網扉前から右手に向かいます。
ドルフィン桟橋右手
(2)  【護岸壁】
ドルフィン桟橋右手。昭和6年(1931年)築の護岸壁。右側の島は、端島の墓地としても使用された中ノ島です。

軍艦島の現在

軍艦島(端島炭鉱)は、1974年(昭和49年)1月15日に閉山、同年4月20日には無人島となりました。2001年に三菱マテリアル(旧三菱鉱業)が高島町(現長崎市)に無償譲渡したことから、現在は長崎市が条例等によって管理しています。

2014年(平成26年)には、「高島炭鉱跡」として高島北渓井坑跡・中ノ島炭坑跡・端島炭鉱跡が国指定史跡になり、翌2015年には、端島炭鉱を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録されました。
現状の端島炭鉱の構造物の多くは昭和期ですが、(写真1)や(写真7)のような明治期の遺構も残っています。

軍艦島の歴史

「軍艦島」は通称ですが、大正10年(1916年)に、長崎日日新聞が戦艦土佐に似ているとして「軍艦島」と紹介、それに先立つ大正5年にも、大阪朝日新聞が、端島を2本煙突の巨大軍艦に似ていると話題にしていることから、大正時代には知られていたようです。

石炭の発見は江戸時代にさかのぼります。明治19年(1886年)には、所有者であった旧鍋島藩家老の深堀鍋島家が第一竪坑を開削しますが、本格的な採炭には至らず、明治23年(1886年)に三菱社に売却しました。

明治中期以降、三菱の財力・技術力が投入され、第二竪坑・第三竪坑・第四竪坑が完成し、 昭和49年(1974年)の閉山まで第二竪坑・第四竪坑は主力竪坑として稼働しました。

・第二竪坑 明治28年(1895年) 開坑
・第三竪坑 明治29年(1896年) 開坑、昭和10年(1935年)に閉鎖
・第四竪坑 大正14年(1925年) 開坑

最終的には、坑道が深度1000mに達しましたが、海底炭鉱という悪条件にもかかわらず操業が続けられたのは、日本一と称された良質の石炭を産出したことによります。

端島は、もともと320 × 120mの岩礁でしたが、明治26年(1893年)以降、昭和6年(1931年)までの間に6回にわたって埋め立て拡張され、最終的には480 × 160mになりました。ただし、それでも東京ドームの13個分にすぎません。
そのような場所に、ピーク時の昭和34年(1959年)ごろには約5,300人が住んでいました。

(動画1) 【軍艦島 端島炭坑 上陸編】

選炭エリアと貯炭場

上陸してすぐ、第1見学広場の右手の広大な敷地は、原炭を選別する「選炭」作業を行うエリアと、商品となる「精炭」を蓄える「貯炭場」です。

2本組の柱状列が並んでいますが、これは、選炭施設から貯炭場まで「精炭」を運ぶためのベルトコンベアの支柱です。
精炭はこのあと貯炭場から石炭専用船に積み込まれました。

貯炭場付近
(3)  【貯炭場周辺】
ドルフィン桟橋正面は鉱業所(炭坑エリア)になります。見学路から右側は、選炭が行われた施設と広大な貯炭場跡地、手前は「天川工法」による護岸壁です。一番奥の白っぽい建物は学校です。
貯炭場付近
(4)  【貯炭場周辺】
2本組の柱状列は、選炭施設から貯炭場まで「精炭」を運ぶためのベルトコンベアの支柱です。左手の柱だけの建物は浮選機室、最上部アパートは幹部職員社宅の3号棟です。

採掘された原炭には、不要な岩石など(ボタ)が混じっていることから、石炭のみを選別する工程が必要になります。これには、ボタを目視で除去していく「手選」と、微粒炭を水の中で浮き上がらせる「浮選」があります。
直径20mの円形水槽「ドルシックナー」が第1見学広場のすぐ脇に残っていますが、横からだとよく分かりません。

ボタトンネル
(5)  【ボタ投棄トンネル】
原炭から選別された捨て石(ボタ)は、外海に投棄されました。(A)の岩礁上は貯水槽です

一般の炭鉱では、ボタを集めたボタ山がつきものですが、ここでは当初埋め立てに使用され、その後は外海に投棄されました。(写真5(A))の封鎖された坑口は、ボタを反対側(西側)に搬出するためのベルトコンベアが設置されていたトンネルの跡です。西側には、31号棟の2階半の位置に口があります(写真5(B))。

第二竪坑

現在、主要部である竪坑は封鎖され見ることはできません。坑口は封鎖され、坑内は水没しているそうです。第二竪坑は見学路の近くにありますが、第二竪坑へ入出坑するために設けられた桟橋の一部と昇降階段のみが残っています(写真6)。階段も崩落寸前なのか、単管パイプで補強されています。

第二竪坑入坑桟橋
(6)  【第二竪坑入坑桟橋】
右手の単管パイプで補強された階段から、左側の第二竪坑に向かいました。第二竪坑直上には、巨大な滑車が取り付けられた「竪坑櫓」が設置されていました。

竪坑直上には、「竪坑櫓」が組まれますが、これは(写真6)の桟橋の左手裏側にありました。閉山時に解体したそうです。
竪坑櫓には、鉱員や資材・掘り出した石炭などの運搬するケージを昇降させるための巨大な滑車が取り付けられていました。そして、ケージを昇降させるワイヤーを巻き取る巻揚機が設置されていた施設が捲座(まきざ)です。(写真11)の中央が第二竪坑の捲座です。櫓とは多少離れた位置にあります。

第三竪坑捲座
(7)  【第三竪坑捲座レンガ壁】
第三竪坑は明治29年(1896年)開坑、昭和10年(1935年)に閉鎖されました。手前のコンクリートは、地下通路の天井です。 

(写真7)のレンガ造りの建物跡は第三竪坑捲座で、昭和10年(1935年)に第三竪坑が閉鎖されてからは、資材置き場になっていました。

巻揚機や排水ポンプの動力は、初期水蒸気、明治40年(1907年)には海底電信線が開通し、動力源は徐々に電力へ移行していったようです。

地下通路
(8)  【地下通路天井部】
ドルフィン桟橋から上陸すると、正面は鉱業所(炭坑エリア)になります。これを避けて生活エリアへ向かうための地下通路(トンネル)です。30号棟地下に通じています。高波で生活エリアが浸水した時には、排水溝の役割も担っていたようです。
護岸壁
(9)  【護岸壁】
明治40年(1907年)築の「天川(あまかわ)」を使用した石組護岸壁です。「天川工法」は、セメントが普及する以前の伝統工法で、自然石と石灰と赤土を混ぜ合わせて凝固剤としました。端島中央部の岩礁の擁壁にもこうした石垣を見ることができます(写真4)。
旧護岸壁
(10)  【旧護岸壁】
端島は、明治26年(1893年)以降6回にわたって埋め立て拡張されています。明治30年(1897年)築の護岸壁の一部が壁のように残っています。「天川工法」で築かれていますが、コンクリートで補強されています。
(A)の第三竪坑捲座レンガ壁の左奥が総合事務所、2階の渡り廊下でつながっているのが会議室です。総合事務所は、平屋根の隅が丸くなっていたりしてオシャレな造りになっています。
第二竪坑捲座など
(11)  【南西側エリア】
左から31号棟、30号棟、第二竪坑捲座、鍛冶工場(奥2階は会議室)。岩礁上は貯水槽で、1957年に完成した海底水道管にともなう施設です。長崎の岳路海岸から引かれました。(写真9(C))は海底からの水道管の配管口です。
灯台(肥前端島灯台)は、閉山後に海上保安庁が設置したものです。

30号棟

グラバーハウスとも呼ばれていたようです。長崎グラバー邸の主人と関わりのあった人物が設計したといわれていますが、実際のところは不明だそうです。

以前の旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設の投稿でふれましたが、日本に鉄筋コンクリートが導入されたのは明治28年(1895年)頃のことで、各所で開発が進められましたが、なかでも、佐世保鎮守府建築科が精力的に研究を行い、さまざまな構造物への応用を模索していました。
日本で最初の鉄筋コンクリート建物は、明治38年(1905年)に建設された佐世保海軍工廠内の第三船渠汽罐室・付属賄所で、そこからわずか11年後の大正5年(1916年)に、日本最古の高層アパート(当初4階一部地階、増築7階)30号棟が建設されました。
増築年は不明のようですが、やはり耐久性不足のため下層部分の痛みが進み、昭和28年(1953年)には、上層を残したまま、下層部分の鉄筋の取り替え、コンクリートの打ち直しを行ったようです。

鉱員社宅でしたが、閉山時は下請業者飯場でした。昭和20年代は、1階が商店街で地階にも売店があり賑わっていたようです。

現状は、中央やや右手から裂けるように崩落が進んでいます。「余命半年程度」の報道がでてからすでに3年。長崎市は、劣化が著しくもはや保存が困難として補修の対象にしていないそうです。。

30号棟
(12)  【30号棟】
大正5年(1916年)竣工の、日本初鉄筋コンクリート造の高層アパートです。
30号棟
(13)  【30号棟】
(B)(C)(D)は、軍艦島デジタルミュージアムのパネルと模型です。

閉山

端島炭鉱で産出される石炭は、「強粘結炭」と呼ばれた良質の石炭で、火力が非常に強く、製鉄などで必要となるコークスの原料にも用いられていました。

石炭産業は、1950年代のエネルギー革命で主要エネルギーが石油へ移り、さらに、1962年の「原油の輸入自由化」などが大打撃となりました。

それでも、端島炭鉱の石炭には高い競争力があったといわれています。

しかし、TBSテレビ日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」第7話の通り、1964年(昭和39年)8月17日に9片坑道(横坑)(深度-940m付近)で発生したガス突出による自然発火事件で水没消火させざるを得なくなり、最終的には3片坑道、深度600m付近まですべて水没してしまいました。深度が増すと地熱も高くなり、良質の石炭であったことも災いして自然発火が起こりやすかったようです。

半年後、別地点(三ツ瀬区域)での出炭が再開されますが、三ツ瀬の良質な炭層は想定以上に深く、その後の調査でも、採掘可能範囲で新たな炭層を発見することができませんでした。

端島炭鉱は、1974年(昭和49年)1月15日に閉山しますが、その主因は安全に採掘できる炭層の枯渇であり、労使合意の上での閉山でした。 そして、同年4月20日に端島は無人島となりました。

端島施設配置図
(図1)  【軍艦島 端島炭鉱 主な施設】
Google Earth Proをもとに作成しました。
1号棟1936年RC造+木造1階端島神社
2号棟1950年RC造3階職員社宅
3号棟1959年RC造4階幹部職員社宅
4号棟木造大正期取り壊し、最終3号棟の敷地
5号棟1950年木造2階鉱長社宅
6号棟1936年木造2階職員合宿所(単身寮)
7号棟1953年木造2階職員倶楽部
8号棟1919年RC造+木造3階職員社宅・共同浴場
9号棟木造不明
10号棟木造不明
11号棟木造不明
12号棟1925年以前RC造+木造3階職員社宅
13号棟1967年RC造4階教職員住宅
14号棟1941年RC造5階職員社宅
15号棟木造大正期取り壊し
16号棟1918年RC造9階日給社宅、鉱員社宅。1階に外勤詰所・電気店・書店・雑貨屋・衣料品店など。一時期パチンコ店
17号棟1918年RC造9階日給社宅、鉱員社宅。1階に「宝来亭」(食堂)
18号棟1918年RC造9階日給社宅、鉱員社宅。1階に「厚生食堂」
19号棟1918年RC造9階日給社宅、鉱員社宅。
20号棟1918年RC造7階日給社宅、鉱員社宅。半地下に肉屋か
21号棟1954年RC造5階鉱員社宅、1階に警察派出所
22号棟1953年RC造5階公務員住宅、1階に老人クラブ、2階に町役場端島支所
23号棟1921年木造2階泉福寺・女子独身寮
24号棟木造31号棟に建て替え
25号棟1931年RC造5階職員社宅、1・2階に旅館「清風荘」、1階にスナックバー「白水苑」
26号棟1966年プレハブ2階下請業者飯場
30号棟1916年RC造7階下請業者飯場(旧鉱員社宅)。竣工時は4階建。1階は商店街、「ニコニコ食堂」・履物店・時計店・呉服店など
31号棟1957年RC造6階鉱員社宅、1階に端島郵便局、地下に共同浴場。2階部分を炭坑エリアからのボタ捨てベルトコンベアが貫通
39号棟1964年RC造3階町立端島公民館、1階図書室、3階集会所
47号棟木造2階1956年倒壊、食堂か
50号棟1927年鉄骨レンガ造2階映画館「昭和館」、1970年閉館。その後卓球場
51号棟1961年RC造8階鉱員社宅、1階に商店
56号棟1939年RC造3階職員社宅
57号棟1939年RC造4階鉱員社宅、地階(実際には道路に面している)に商店街「端島銀座」。酒・雑貨・衣類・飲食・料理屋・タバコ雑貨・八百屋・青果・魚屋など
59号棟1953年RC造5階屋上にプレハブ増築。鉱員社宅、地下購買所
60号棟1953年RC造5階屋上にプレハブ増築。鉱員社宅、地下購買所
61号棟1953年RC造5階屋上にプレハブ増築。鉱員社宅、地下共同浴場。
65号棟1945年RC造9階竣工時は北棟のみ。戦後増築。屋上に保育園、他に組合事務所など。端島最大317戸
66号棟1940年RC造4階鉱員合宿所(独身寮)「啓明寮」
67号棟1950年RC造4階鉱員合宿所(独身寮)
68号棟1958年RC造2階高島鉱業所 端島病院隔離病棟
69号棟1958年RC造4階高島鉱業所 端島病院
70号棟1958年RC造6階町立端島小中学校。屋上に7階部分を鉄骨で増築
71号棟1970年RC造2階1階は柔剣道場と給食室、2階体育館
下記を参考にしました。一応閉山時、最終段階を基準としつつ、欠番をいくつか埋めてみました。不確実なものもあります。
撮影位置図
(図2)  【撮影位置図】
Google Earth Proをもとに作成しました。

軍艦島については、くわしい図書やWebサイトが多数あります。
今回、私はおもに下記を参考にさせてもらいました。『軍艦島実測調査資料集』といった図書集もあり、図面好きの私としては思わずAmazonでポチしたくなるような衝動に駆られてしまいましたが、さすがにKindle版で38,800円(2024年12月現在)は。。。。

今回の投稿は、個人的な備忘録でもあるのですが、ただ、調べたのはここ 1か月ほどで、上陸時には予備知識なし。それでも、上陸したことだけで興奮してしまい、それで満足していました。 「海に眠るダイヤモンド」を見ていて急にまとめる気になったのですが、やはり調べてみると、この程度のことでも頭に入れておくだけで、おそらくガイドさんの話ももっと理解できたのではないかと少し後悔しています。

ただ、軍艦島には、またかならず行くつもりです。
本サイトが、これから行かれる方の一助になれば幸いです

参考文献
・webサイト『想像と記憶(端島・軍艦島)
・ウィキペディア「端島(長崎県)
・風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』イーストプレス 2022年

2024年4月現地、2024年12月10日投稿


投稿日 :

カテゴリー :

,

投稿者 :