鞆の浦、宮ヶ浜港防波堤、恵美須ヶ鼻造船所、鹿児島旧港施設(新波止・遮断防波堤・一丁台場)

江戸時代の港湾施設
四郎ヶ島台場(長崎県長崎市)の石堤(連絡道)(写真1)に関連した投稿です。投稿順が前後してしまいましたが、四郎ヶ島台場は次回投稿します。
近代以前の港湾施設としては、奈良時代に起源をもち平清盛が日宋貿易の拠点として整備した大輪田泊(おおわだのとまり)(兵庫県神戸市)や、鎌倉時代の和賀江島(わかえじま/わかえのしま)築港(神奈川県鎌倉市)が有名です。
私が行ったことのある遺跡では、江戸時代前半期、寛文3年(1633年)築造とされる、対馬厳原港近くの対馬藩「お船江(お船屋)」があります。人工の入江に4基の突堤と5か所の船渠(せんきょ)が残っています(写真2)。朝鮮通信使の窓口となっていた対馬藩は、多くの御用船を所有していて、係留施設「お船江」に入渠して船体の管理をしていました。

港湾施設は、開港以降、拡張・更新されていくため、開港当時の遺構が遺跡として残ることはあまりありません。それでも、地方港では、江戸時代後半から幕末期にかけて築かれた「波止(はと)」と呼ばれる防波堤が、現役のまま残っていることがあります。
江戸時代は、江戸後半期の北前船や菱垣廻船・樽廻船に代表されるような海運の発達と、その後の開国と嘉永6年(1853年)の大船建造の禁の廃止などにともない、港湾施設の整備が藩の施策として進められました。
これまで、波止(防波堤)について特段興味があったわけではないのですが、何か所か行ったことがあったのでここで紹介します。
巻石防波堤
江戸時代の現存防波堤はいずれも石造りで、「巻石防波堤」と呼ばれています。「巻石」とは、防波堤表面を被覆した築石のことで、「巻石防波堤」は、断面形が台形ないし蒲鉾形となる共通した特徴が認められます。
四郎ヶ島台場の石堤(連絡道)も、上部が崩れコンクリート造に改変されていますが、当初は巻石だった思います。
「巻石防波堤」の起源は不明ですが、元禄11年(1698年)築造で現役最古とも言われている大多府(おおたぶ)漁港元禄防波堤が巻石です。
これは、岡山藩主補佐の津田永忠による築造です。津田は和意谷池田家墓所(岡山県備前市)、閑谷学校(岡山県備前市)、後楽園(岡山県岡山市)など数々の土木事業を手がけていて興味があったのですが、大多府漁港元禄防波堤は今回知りました。
ただ、築造以降改修を重ねているので、現在の形状が築造当時のままかどうかは分かりません。
近代以前の波止については、「近世以前の土木・産業遺産」にまとめられています。
鞆の浦(鞆港)の大波止
(写真3)は、鞆の浦(広島県福山市)を象徴する常夜燈です。安政6年(1859年)に完成しました。高さは本体で5.5mあります。

【鞆の浦 大波止】
広島県福山市鞆町鞆
大波止起点付近に船番所があります。
周辺に公営を含め有料駐車場がいくつかありました。
鞆の浦の重要伝統的建造物群保存地区は、道が狭い割りに交通量が多いので、駐車場は深追いしない方が良いと思います。
(写真4~6)は、鞆の浦(鞆港)(大可島)の大波止(巻石防波堤)です。
寛政3年(1791年)に備前児島の石工、栄五郎によって90mが築かれました。その後文化8年(1811年)に、福山藩士で鞆奉行であった下宮左門が播州高砂の名工、工楽松右衛門を招聘し、文政7年(1824年)に全長144mに及ぶ現状の大波止を完成させました。堤体には、7か所の階段雁木(写真5(B))がほぼ等間隔に配置されています。
鞆の浦には、波止以外にも、船番所(写真6(A))、雁木(写真6(C))などの港湾施設が残っています。また、沖合の玉津島にも、弘化4年(1847年)に巻石の防波堤が築かれています。



(A)波止に繋船柱(けいせんちゅう)、奥に船番所、(C)雁木。
宮ヶ浜港防波堤(捍海堤)
(写真7~9)は、宮ヶ浜港防波堤(捍海堤(かんかいてい))(鹿児島県指宿市)です。薩摩半島の南東に位置する宮ヶ浜港に築かれた全長220mの江戸時代最大級の防波堤です。
薩摩藩主島津斉興の命により、天保5年(1834年)に築造されました。当時の石灯籠が残っています(写真7(B))。
登録有形文化財(建造物)です。

(B)石灯籠。
【宮ヶ浜港防波堤】
鹿児島県指宿市西方
漁業関係者用以外に見学者用の無料駐車場が整備されています。

外洋側(左側)はコンクリート造に改築。

(B)先端部、(C)巻石と内部。
恵美須ヶ鼻造船所の波止
(写真10~12)は、恵美須ヶ鼻(えびすがはな)造船所(山口県萩市)です。国指定史跡で世界文化遺産です。

【恵美須ヶ鼻造船所】
山口県萩市椿東
見学者用無料駐車場があります。
近隣に、やはり世界文化遺産の萩反射炉があります。
幕府による嘉永6年(1853年)の大船建造の解禁後、長州(萩)藩が洋式軍艦建造のために安政3年(1856年)ごろに設置した造船所です。西洋式帆船の丙辰丸・庚申丸が建造されています。
造船関係の地上構造物は残っていませんが、巻石の堤防が残っています。萩の外港のひとつ小畑浦の防波堤を兼ねて築造されたと推定されます。

(A)先端側、繋船柱が並ぶ、(B)(A)の反対側、(C)Cタイプ矢穴。

(A)右側が造船所、発掘調査を行っていました(2019年11月)。
鹿児島旧港施設
鹿児島旧港施設(鹿児島県鹿児島市)は、鹿児島港本港区にある港湾施設です。国指定重要文化財です。

【鹿児島旧港施設 一丁台場】
鹿児島県鹿児島市本港新町
桜島フェリーターミナルや水族館があるエリアです。
近隣に有料駐車場があります。

(A)新波止、中央に繋船柱、(B)遮断防波堤、(C)「薩摩藩砲台跡碑」大正12年建立。


(B)砲座跡、(C)先端部、手前不明施設。



現状は水族館のある海側の埋立てによって護岸状になっていますが、当初は防波堤として築かれました。
一連の護岸(防波堤)に見えますが、築造経緯から見ると、北側の「新波止」と、南側の「一丁台場」、両者をつなぐ「遮断防波堤(第一防波堤)」かに分かれます。
(図1)は、一般社団法人日本埋立浚渫境界Webサイトからお借りしました。
「新波止」は、弘化年間(1844~1848年)に防波堤として築かれ、安政元年(1855年)に「新波止台場」に改造されました(写真13・14(A))。防塁状の台場で、薩英戦争時に150ポンド砲など11門の大砲が配備され、イギリス艦隊と交戦しました。
「一丁台場」は、明治5年(1872年)頃に築造され、現在も砲座が確認できます(写真16~18)。
台場としての役割を終えた後明治37年(1904年)に、「新波止」と「一丁台場」を連結する「遮断防波堤」が築かれ(写真13・14(B))、三者は一体的な波止(防波堤)になりました。
断面形がきれいなカーブを描く巻石防波堤で、築石のあちこちには、石工の銘や刻印が刻まれています(写真15)。下調べもなく見学してしまったので、石工の銘は確認できませんでした。
四郎ヶ島台場2024年4月、対馬藩お船江2021年4月、鞆の浦2024年10月、恵美須ヶ鼻造船所2019年11月、宮ヶ浜港防波堤・鹿児島旧港施設2024年1月現地、2026年9月21日投稿。
