築造経緯と石堤(連絡道)
長崎台場 (4)
幕末の城 (6)


下段側(西口)。
四郎ヶ島台場(長崎県長崎市)です。掲載写真が多いため、3回に分けて投稿します。
四郎ヶ島台場概要
四郎ヶ島台場は、長崎警備のために嘉永6年(1853年)に築造された台場(砲台)です。国指定史跡です。
四郎ヶ島は、埋立てによって九州本土と陸続きになった神ノ島、周辺の高鉾島・中ノ島・松島などとともに長崎湾口の北側にある島嶼のひとつで、このうち、四郎ヶ島・神ノ島・高鉾島には、江戸時代に台場が築かれています(図1)。

(長崎市教育委員会 2011年b)を参考に作成。背景図はカシミール3Dで作成。

GoogleEarthから。
史料・絵図によると、四郎ヶ島台場は、「四郎ヶ島(四郎島)」と「小島」、「四郎ヶ島」地区は、「山上(上段)」と西側の「下段」に区分されていたようです。絵図によっては、「(四郎島御台場」と「小島御台場」としているものもあります。
もともと、四郎ヶ島と小島は独立した島で、築城時に両者の間が埋め立てられ、現在の四郎ヶ島になりました。さらに、四郎ヶ島と神ノ島の間には連絡道(陸繋道路)(石堤/防波堤)が築かれました。
(図2)の地区名称のうち、黒字が史料・絵図にあるもので、赤字は今回付した便宜的な名称です。「山上(上段)」は、土塁区画によって、東区と西区に分けておきます。また、四郎ヶ島と小島間の埋立地は「小島」地区に含めておきます。

(長崎市教育委員会 2011年b)からの転載、一部加筆。
四郎ヶ島台場へは、神の島公園利用者駐車場からすぐです。入口はこちら。連絡道 (写真4~9)は外洋(五島灘)に面していることから、悪天時は危険だと思います。
島内は残念ながらジャングルです。釣人さんの踏み跡を辿りながらの見学になります。島内には見学順路の案内標式もありましたが、現状は全体が藪に埋もれていて、順路はまったくつかめませんでした。なお、今回の見学は4月中ごろです。
【四郎ヶ島台場】
長崎県長崎市神ノ島町3丁目
神ノ島西側の埋立地にある神の島公園ソフトボール場の南側(四郎ヶ島側)に、無料の公園利用者専用駐車場があります。看板が立っています。
四郎ヶ島台場築造
築造経緯
天保13年(1842年)、アヘン戦争の清国敗戦は、幕府に大きな衝撃を与えました。
長崎警備を担当していた肥前佐賀藩にとっては、より現実的で深刻な問題として受け止められたと思われます。
長崎警備は、佐賀藩と福岡藩が隔年で担当していましたが、長崎港外(外目)の防衛強化を提起した佐賀藩に対して、福岡藩は長崎港内(内目)を中心とした既存台場の整備を主張し、両者は折り合いませんでした。外目・内目の境界は、女神大橋のある女神水道です。
このため、佐賀藩は、幕府の許可を得て、嘉永3年(1850年)から嘉永6年にかけて、佐賀藩領神ノ島や伊王島など長崎港外(外目)に自費で新たな台場を築きました。これは従来の「公儀御台場」に対して「佐賀台場」と呼ばれています(図1)。
四郎ヶ島台場(長崎県長崎市)は「佐賀台場」の一つです。
長崎警備の歴史、(図1)の詳細は、「幕末の城(3)」でまとめています。
築造工程
工事は対岸の神ノ島台場と一体的に行われました。その工程の概要は、佐賀藩の本島藤太夫の『松乃落葉』、長森敬斐が編さんした『内外台場改築始末』に記録が残されているようです(長崎市教育委員会 2012年)。
これによると、四郎ヶ島台場は、嘉永3年(1850年)に設計と積算、幕府への許可取りと経費10万両の拝借願などの事務手続きが行われ、この間、藩主鍋島直正(斉正)の側近であった本島藤太夫は、当時西洋式の築城術・砲術の第一人者であった幕臣で伊豆韮山代官の江川英龍(坦庵)に指導を仰いでいます。本島藤太夫は、四郎ヶ島台場の設計者と推定されています。。
ただ、砲台の築造や反射炉、大砲の鋳造など、佐賀藩は英龍(幕府)より一足早く実現しました。それだけ、佐賀藩には切迫感があったのでしょう。
現地工事が開始されたのは嘉永4年(1851年)になってからでした。
嘉永4年は、近隣の中ノ島を切り崩し、四郎ヶ島と小島間の埋立てが行われ、同時に四郎ヶ島地区北西・南西側の石垣が築かれました。石丁場(石切場)は、四郎ヶ島と中ノ島で確認されています。石丁場は次回投稿します。
嘉永5年は、埋立てられた小島地区南側の石垣Eと、四郎ヶ島と神ノ島をつなぐ連絡道(石堤)の埋立て工事が行われました。これも沖ノ島を切り崩して石材を調達しています。
8月には、弾薬庫である「石造小玉薬庫(御石蔵)」など台場内構造物の建造に着手し、翌嘉永6年(1853年)3月に全体が完成したようです。
佐賀藩では、工事に並行して大砲の鋳造が行われ、嘉永6年5月には、150ポンド砲と80ポンド砲各1門が四郎ヶ島台場山上地区に設置されました。最終的には、14門が配備されています。
嘉永6年5月には、藩主鍋島直正(斉正)の視察があり、大砲の試射が行われました。
台場その後
四郎ヶ島台場は、実戦の機会がないまま明治維新を迎えます。
長崎警備の台場群は、慶応2年(1866年)に一部をのぞき大砲・玉薬が撤去され廃止されます。
明治期になり、四郎ヶ島周辺一帯は陸軍省から長崎県に対して砲台築造予定地として払下げの要望あり、明治33年(1900年)には、神ノ島台場が長崎要塞の神ノ島高砲台に再築されました。これにともない四郎ヶ島は、長崎要塞第一地帯に含まれることになりました。(写真13)は、四郎ヶ島に残る要塞地帯標です。ただし、四郎ヶ島自体が砲台として再利用されることはありませんでした。要塞地帯については、こちらを参考にしてください。
神ノ島高砲台については、現在、公園内に棲息掩蔽部や砲座などが残されていますが、今回時間がなかったので行きませんでした。
四郎ヶ島台場の遺構(1)
連絡道(石堤)
四郎ヶ島台場と神ノ島をつなぐ連絡道(陸繋通路)(石堤)は、台場築造時に埋立造成された人工の橋です。波止(防波堤)を兼ねていたと思われ、現状は上部が崩落し、コンクリート造になっています。
石垣の東西面を石垣Hと石垣Gに分けていますが(図2)、連絡道両端以外は一体的な石垣(石堤)であったと推定されます。石堤部分で全長が約220mになる大規模な連絡道です。

(写真4)は、連絡道北側、神ノ島東側の石垣(石垣H)です。神ノ島の四郎ヶ島入口横の石垣です。ここはまだ石堤ではなく神ノ島の護岸石垣です。
(写真4(B)(C))は、断面が蒲鉾形になる巻石の石垣です。
(写真5)は、神ノ島南端付近から四郎ヶ島側を見た石垣Hです。
(写真12(A)(B))はこの付近の矢穴石です。矢穴石は各所で認められますが、いずれも矢穴口長辺が6~8cmほどの「Cタイプ」です。矢穴については、次回投稿します。


(A)神ノ島側接続部付近、(B)連絡道中央付近から神ノ島側、(C)連絡道中央付近から四郎ヶ島側。

(A)四郎ヶ島台場側から連絡道全体、(B)連絡道から四郎ヶ島台場、(C)四郎ヶ島側接続部から連絡道。
(写真6)は、連絡道西側石垣(石垣G)です。(写真6(A))は神ノ島側接続部付近です。台場時代の石堤の上にコンクリート造の新たな防波堤が築かれています。東シナ海(五島灘)側なので、石垣はほとんど崩壊していますが、四郎ヶ島寄りの(写真6(B))は、基礎部分の築石(巻石)が残っています。
(写真7)は、石垣Gの四郎ヶ島側です。四郎ヶ島接続部付近は島影に隠れているためか崩壊を免れています。
なお、(写真6)と(写真7)は、築石、堤体内部の状況が違います。

(A)(B)神ノ島側接続部付近から、(C)連絡道中央付近から神ノ島側。

四郎ヶ島側接続部付近から。
(写真8・9)は、(写真5)から四郎ヶ島側の石垣Hです。(写真8(A)(B))は、連絡道の神ノ島側接続部付近東側です。ほぼ同位置です。(写真8(B))は海面際から撮ったもので、石垣基部築石(巻石)が残っています。
(写真8(C)・9)は、石垣Hを四郎ヶ島側から神ノ島側を撮っています。
(写真10)は、連絡道(写真8(C))撮影付近から小島側を撮ったところです。内湾状になっています。内湾奥の埋立地側は石だらけ。石堤を含めどれだけ多量の石材が使用されたのか。


(B)(C)石垣F天端石列。

(A)(B)神ノ島東側石垣(石垣H)(写真4)付近、 (C)(D)石垣F(写真11)付近。

(写真11)は、連絡道から撮った四郎ヶ島北側護岸石垣(石垣F)です。
(写真12(C)(D))は石垣F付近の矢穴石です。やはり、「Cタイプ」の矢穴です。
(写真13)は、陸軍省の要塞地帯標です。「陸軍省」「明治三十二年六月十日」とあります。日付けは不確実です。裏面は確認しませんでした。
巻石防波堤
四郎ヶ島と神ノ島は、長崎湾口にあり、連絡道(石堤)は防波堤を兼ねて築かれたと考えられます。
石堤は、四郎ヶ島・神ノ島接続部付近の(写真4・7)と、中央部側の(写真5・6・8・9)では、石垣の状況が違っています。
(写真4・7)の接続部付近は、地山に対して築かれた護岸石垣で、石垣表面の「築石」は奥行きのある石材を使用しています(写真7(B)(C))。これに対して石堤中央部側は、堤体内部まで礫で築かれています。外表面の築石も内部と基本同じで、奥行きのある縦長石は使用されていません(写真6(B)・8(B))。上部の状況は不明ですが、(写真8(C))などの見ると石堤外面はやや内傾するカーブを描いていることから、接続部の石垣ほど高くは築かれていないと思います。
前回の投稿で、恵美須ヶ鼻造船所跡(山口県萩市)、鞆の浦の波止(広島県福山市)、宮ヶ浜港防波堤(捍海堤)(鹿児島県指宿市)、鹿児島港旧石積防波堤(鹿児島県鹿児島市)の「巻石防波堤」を投稿しましたが、四郎ヶ島台場連絡道(石堤)中央部分もこれらと同じ構造であったと推定されます。四郎ヶ島では、(写真4(B)(C))、次回投稿予定の石垣 I が「巻石」ですが、両者とも台場の時期かどうかは不明確です。
「巻石」とは、外周を被覆した築石のことで、石垣の築石の「積む」ではなく、「貼石」「葺石」のイメージです。
また、「巻石防波堤」は、断面形が台形ないし蒲鉾形となる共通した特徴が認められます。
連絡道(石堤)では、(写真7(A))の赤▲のあたりに護岸石垣と巻石防波堤の境界がありそうです。
巻石防波堤部分は、護岸石垣ほど高くはなく、段差部分に虎口があった可能性もありそうです。
台場本体の石垣と石丁場、矢穴については次回投稿します。

今回は、おもに
・長崎市教育委員会『四郎ヶ島台場跡 範囲確認調査に伴う石垣測量調査報告書』2011年b
・長崎市教育委員会『史跡長崎台場群四郎ヶ島台場跡保存活用計画書』2016年
・長崎市教育委員会『四郎ヶ島台場跡 第1次~第3次発掘調査報告書』2012年
を参考にさせてもらいました。
参考文献は「幕末の城投稿一覧」にまとめてあります。
四郎ヶ島台場2024年4月現地、2026年9月27日投稿。
