旧佐世保無線電信所(針尾送信所) (1)

 

針尾送信所3号塔内部
(1) 【3号無線塔 内部】
塔には、高さ12~13m間隔で4方向に窓が設けられています。内部は井桁に組まれた鉄骨が見えますが、リフトや階段は無く、頂上まで登るには、壁面に設けられたハシゴを使わなければなりません
針尾送信所無線塔
(2) 【針尾送信所 無線塔群】
南側から。左から、3号塔、1号塔、2号塔。1号塔は大正11年4月30日、2号塔は同年5月21日、3号塔は同年7月31日の完成。

針尾送信所

針尾送信所(はりおそうしんじょ)は、旧日本海軍によって大村湾の入口にある針尾島(旧東彼杵郡崎針尾村/現長崎県佐世保市針尾中町)に建造された無線送信所です。
2024年4月に行ってきました。

日露戦争で無線通信の重要性を認識した海軍によって、日本周辺の通信網の基幹施設として計画された長波無線電信所のひとつで、大正7年(1918年)に着工、大正11年(1922年)に完成しました。
3基の鉄筋コンクリート製の無線塔を一辺300mの正三角形の頂点に配置し、その中心に電信室(通信局舎)を置いています。
2013年、建造に至る歴史的背景とともに、鉄筋コンクリートなどの日本の技術発展を象徴する近代化遺産として評価され、国重要文化財に指定されました。指定物件は無線塔3塔、電信室1棟、油庫(ゆこ)1棟と、附(つけたり)として見張所1基で、指定名称は「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」です。
また、2016年には日本遺産(鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~)の構成文化財の一つにも認定されました。

無線塔

日本国内で、大正時代に建設された無線塔や煙突などの塔状構造物としては、唯一の現存例です。
塔高は、1号無線塔・2号無線塔が135m、3号塔137m、基部直径は12.12m、塔頂部直径3.17m、厚さ0.76mです。長崎空港からも見えるそうですが、このときは黄砂がひどくて確認できませんでした。
塔頂部には、アンテナとなる「簪(かんざし)」と呼ばれた一辺18mの正三角形の鋼材がのっていましたが、1980~1983年に撤去されたそうです。簪の写真(松尾 2013年から)は、動画に入れてあります。

針尾送信所3号塔
(3) 【3号無線塔】
建設当時のままの壁面ですが、ほとんど劣化がみられません。
針尾送信所3号塔
(4) 【3号無線塔】
針尾送信所3号塔入口
(5) 【3号無線塔 出入口】
針尾送信所1号塔
(6) 【1号無線塔】
現在、3号塔は外観および内部への立入り(入口付近のみ)による見学ができますが、1号塔は外観のみ、2号塔については、民有地と隣接していることから近くでの見学はできません。

鉄筋コンクリート

日本でのコンクリートは、明治5年(1872年)に東京都江東区深川で官営セメント工場(深川セメント製造所)が設立されたことから始まりました。
明治期後半から大正・昭和期の建造物は、木造をのぞくと煉瓦からコンクリートへ移行していきます。旧陸軍の要塞では、明治20年代前半までは煉瓦+石積でしたが、明治20年代後半から掩体壕の穹窿部(きゅうりゅうぶ/アーチ天井)などがコンクリートになり、明治30年代になるとコンクリートが各部で使用されるようになりました。
しかし、この時期のコンクリートの多くは無筋で、大正3年(1914年)に完成した東京湾要塞第二海堡の巨大砲塔も無筋コンクリートでした。
無筋コンクリートは、鉄筋コンクリート(RC)に比べて引張強度が弱く、割れが生じやすくて耐震性や耐久性に問題がありました。また、初期のコンクリートは、耐水性にも問題があったようです。

世界最初の鉄筋コンクリートは、1867年のパリ万博に仏人造園家のモニエが金網入り植木鉢を出品し、特許を得たことに始まるとされています。わが国に導入されたのは明治28年(1895年)ごろのことで、各所で研究開発が進められました。
中でも、佐世保鎮守府建築科には日本を代表する技師、吉村長策、真島健三郎そして吉田直(のぼる)が在籍し、とくに真島健三郎は鉄筋コンクリートについて精力的に研究を行い、建築物への応用を模索しました。
日本で最初の鉄筋コンクリート橋は、京都琵琶湖疏水運河に架かる日ノ岡第11号橋と、佐世保市の本河内低部ダム貯水位池放水路アーチ橋で、明治36年(1903年)の建造です。
明治37年(1904年)には、高さ24mの佐世保海軍工廠内船渠附属喞筒所煙突、明治38年(1905年)には佐世保海軍工廠内の第三船渠汽罐室、付属賄所が完成しました。
琵琶湖疏橋以外は佐世保鎮守府建築科が工事を担当していますが、いずれもそれぞれの構造物で日本最初となる鉄筋コンクリート製です。

真島健三郎は、耐海水コンクリートの開発も進め、当初漏水で使用できなかった佐世保工廠第一船渠(現SSK第5ドック)を、明治36年(1903 年)に改修完成させています。
その後も佐世保では、佐世保海軍工廠修理艦船繋留場(立神係船池)船渠や佐世保川の佐世保橋(海軍橋)など、さまざまな建築物を鉄筋コンクリート、耐水コンクリートで建設することが試みられました。
コンクリート構造部の「日本初」は、多くが佐世保鎮守府建築科によって成し遂げられました。

なお、長崎県端島炭鉱(軍艦島)では、日本最初の鉄筋コンクリート建物である佐世保海軍工廠第三船渠汽罐室、付属賄所(2階建)からわずか13年後の大正5年(1916年)に、高層アパート(当初4階増築7階)「30号棟」が建設されています。
この時期の技術の発展にはめざましいものがありました。

針尾送信所建設

海軍では、日露戦争後に3か所の無線局を計画しました。
大正5年(1916年)にまず船橋送信所(無線電信所)(千葉県船橋市現行田団地)が完成、次いで大正8年(1919年)に台湾の鳳山送信所(台湾高雄市)が完成しました。
船橋と鳳山の主塔はともに高さ200mの鉄塔で、鳳山送信所の建設は佐世保鎮守府が担当しました。
しかし、最後に着工した針尾送信所(大正7年着工、大正11年完成)については、鉄筋コンクリート製です。これについては、当時の鉄鋼資材の高騰が原因ともいわれていますが、この時期は海軍が鉄筋コンクリート建造物の可能性を探っていた時期であり、とくに佐世保鎮守府は、鉄筋コンクリート建造物の先端技術を蓄積していたことから、その実践の場として針尾送信所無線塔が鉄筋コンクリートで建設されたともいわれています。
設計・施工管理は吉田直です。真島健三郎は大正6年(1917年)に呉鎮守府建築課長として転出していますが、設計段階にはかかわっていた可能性もあるようです。
現在、築100年を経過しましたが、とても100年が経過したとは思えないほど劣化が見られません。

針尾送信所工事途中
【無線塔 工事写真】
現地説明板から。基礎部分の鉄筋の様子が分かります。
針尾送信所全体図
周辺地形図】
原図は(松尾秀昭 2013年)からお借りしました。

見学可能時間は9:00~12:00、13:00~16:00。ボランティアさん(針尾無線塔保存会)が常駐していますが、説明を希望する場合は、事前の電話連絡が推奨されています。
駐車場はそれなりの広さがあります。見学、駐車場は無料です。
くわしくは こちら

参考文献
・松尾秀昭「針尾無線塔の過去と未来」『 針尾送信所90周年記念シンポジウム』佐世保市教育委員会 2013年
・倉谷昌伺「明治時代の情報処理技術とネットワーク戦略 日露戦争(日本海海戦)を中心に」『NAISジャーナル』vol.13 日本応用情報学会 2019年 webサイト
・大森睦「佐世保で発展した近代コンクリート構造物」『よろいど』150巻 一般社団法人長崎建築士会 2020年
・国立大学法人電気通信大学UECミュージアム『電気通信大学60年史』Webサイト


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