無線通信
無線通信(電波式無線電信)の始まりは、1895年にイタリアのグリエルモ・マルコーニが発明したモールス信号による無線電信機です。この発見は明治30年(1897年)5月に雑誌エレクトリシャンに掲載され日本にも伝えられました。電信機の詳細については極秘となっていましたが、逓信省ではすぐさま無線電信研究部が設置され、松代松之助らによって研究が開始されました。明治33年(1900年)には、千葉県津田沼・八幡間10海里(18.5 km)、千葉県船橋・神奈川県大津間34海里(63 km)の通信試験を行い、いずれも成功を収めています。
しかし、これを最初に実用化したのは海軍でした。
海軍は、明治32年(1899年)2月に無線電信調査委員会を設置し、松代松之助を招聘して研究開発を進めました。明治33年(1900年)には三四式無線電信機を完成させ、艦船間40海里(74 km)、陸上と艦船間70海里(約130 km)の通信を成功させました。
当時、ロシアとの関係が悪化し緊張が高まっていたため、海軍では三四式無線電信機を三六式に進化させ、開戦までに海軍艦船全部に装備することを至上命令として突貫工事を行い、なんとか間に合わせました。この時の三六式無線電信機の通信距離は、200海里(約370 km)に伸びていました。
日本海海戦
明治38年(1905年)5月、日本海軍はロシア海軍バルチック艦隊を対馬海峡付近で待ち構えていました。
5月27日午前5時、哨戒にあたっていた仮装巡洋艦信濃丸が敵艦隊を発見し、「敵ノ第二艦隊見ユ 203地点」と無線警報を発信。これを受信した朝鮮半島鎮海湾の連合艦隊は「本日天氣晴朗ナレドモ浪髙シ」と大本営へ打電。直ちに全艦隊が出航して迎撃態勢をとり、約30分間の戦闘でバルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えました。
日本海海戦は砲戦のみが注目されていますが、無線電信を中心とした最初の情報戦でもありました(倉谷 2019年)。構築された情報網による艦隊の連携は、勝敗を決定付ける大きな成果として諸外国を驚嘆させたようで、日本を含め無線通信の重要性が再認識されることになりました。
無線電信所の整備
日露戦争時の無線通信はおもに艦船間を中心とするものでしたが、海軍は、明治43年(1911年)に中国大陸、東南アジア、南太平洋方面に展開する海軍部隊との安定的な通信網の構築を目的として東京、佐世保、台湾に無線局を建設することとしました。
大正5年(1916年)にまず船橋送信所(千葉県船橋市現行田団地)が、次いで大正8年(1919年)に台湾の鳳山送信所(台湾高雄市)、そして大正11年(1922年)に針尾送信所が完成しました。
この時期、逓信省でも無線電信所の建設が進められ、大正10年(1921年)には、対米通信用に原町送信所(福島県南相馬市)が、昭和4年(1929年)には対欧通信用として依佐美送信所(愛知県刈谷市)が建設されました。
無線塔は、針尾送信所と原町送信所以外は鉄塔で、依佐美送信所の8基の鉄塔の高さは250m。当時のアジアでは最も高い建造物でした。原町送信所の無線塔は鉄筋コンクリート製で、針尾送信所を上回る201mの高さがありましたが、劣化のため1982年に解体されました。他の鉄塔も現存しません。
長波から短波
針尾送信所が建設された当時、無線の主流は「長波」通信でしたが、長波による遠距離通信には高出力の電波と長大な無線アンテナが必要となるため、巨大な設備が必要でした。しかし、昭和10年(1935年)ごろになると、遠距離通信には「短波」通信の方が優れていることが分かり、長波通信は次第に補助的に使用されるようになりました。
針尾の無線塔も、太平洋戦争末期には食料倉庫として使われることもあったようです。
戦後は、佐世保海上保安部針尾送信分室が置かれ、海上自衛隊と共同で使用していましたが、後継無線施設ができたため、1996年にその役割を終えることになりました。
針尾送信所 その他の施設
針尾送信所は、2013年に国重要文化財に指定されましたが、指定物件は無線塔3塔以外に、電信室1棟、油庫(ゆこ)1棟、そして附(つけたり)として見張所1基があります。
旧佐世保無線電信所(針尾送信所)、終わりです。参考文献等は(1)にあります。