旧海軍 佐世保鎮守府
片島魚雷発射試験場

(A)魚雷発射場、(B)魚雷発射場から空気圧縮喞筒所
川棚魚雷遠距離発射場の概要
川棚(かわたな)魚雷遠距離発射場(片島魚雷発射試験場跡)は、大正7年(1918年)に設置された旧海軍佐世保鎮守府所管の魚雷の発射試験場です。長崎県の大村湾岸(現長崎県東彼杵郡川棚町三越郷片島)に所在します。佐世保海軍工廠、後には川棚海軍工廠などで製造された魚雷の完成検査を行うための施設です。
「片島魚雷発射試験場跡」の名称もあり、私が訪れた2024年4月当時の現地案内や川棚町作成のパンフレット、Googleマップは現在も「片島魚雷発射試験場跡」になっています。ただし、稼働当時の史料は「川棚魚雷遠距離発射場」ないし「川棚魚雷発射場」と表記されることが多いようで、2024年8月に認可された国の登録有形文化財の登録名は「旧佐世保海軍工廠川棚魚雷遠距離発射場」です。今後、「川棚魚雷遠距離発射場」で統一されるのではないかと思います。ただ、(図1)をみるといまだ混乱途上でしょうか。
魚雷発射試験場というと、試作品のテストのように思ってしまいますが、ここで行われていたのは、海軍工廠などで製造ないし修理された魚雷の完成検査(領収発射)を行うための施設です。爆弾や砲弾、魚雷は消耗品ですが、魚雷にそこまでの手間をかけたのは、爆弾や砲弾と違って自律的な動力をもつこと、それによって非常に高価だったことによります。
北太平洋キスカ島での水雷長石田捨雄大尉の有名な狂歌があります。
「一番が 敵だ敵だとわめき立て さっと打ち出す二十万円」
一番とは、敵発見を報じた第一分隊長のことで、結局は湾港の岩礁を見誤ったとのこと。4連装の九三式酸素魚雷は一本5万円。当時と現在の貨幣価値の換算は簡単ではないようですが、現在価格でおよそ一本5000万円程度になるようです(齋藤義朗 2018年)。
魚雷製造と川棚魚雷遠距離発射場
魚雷は、日清・日露戦争の時代から使用されていました。この時代は、すべて輸入品で、ドイツのシュワルツコフ社製の魚雷を使用していました。これは、朱式八四式、改良型が朱式八八式と名付けられました。朱式の射程は400mで、正確に命中させるためには100m程度まで近づかなければならなかったようです。
日清戦争(明治27年(1884年)~明治28年)の威海衛の戦いでは、水雷艇部隊が威海衛湾内へ侵入し清国北洋艦隊を襲撃しています。日露戦争(明治37年(1904年)~明治88年)の日本海海戦でも、魚雷を搭載した水雷艇と駆逐艦は目覚ましい活躍をとげました。
国産魚雷の開発は、明治26年(1891年)から旧東京市芝区赤羽の海軍造兵廠で行われていましたが、日清・日露戦争の戦果をうけ加速することとなりました。しかし、最初に国産化に成功した四四式魚雷が兵器採用となったのは明治44年(1911年)でした。
粗材は呉工廠製鋼部、機械工作と仕上作業は、呉と横須賀、佐世保の海軍工廠造兵部水雷工場で行いました。
この段階の佐世保海軍工廠の発射試験場は、佐世保軍港入口付近の鱏(えい)ノ鼻付近にありましたが、ここは射程が4km程度しか確保できませんでした。しかし、大正6年(1914)に兵器採用となった六年式は、26kt(ノット)で射程距離は15kmに達していて、新たな発射試験場が必要となりました。

昭和22年(1947年)11月2日アメリカ軍撮影、国土地理院地図・空中写真閲覧サービス提供。
こうした事情を受け、大正7年(1918年)8月に完成したのが川棚魚雷遠距離発射場です。川棚魚雷遠距離発射場が設置された大村湾は、内海であることから波も比較的静かで、大型船の航行も少なく、射程距離も15km以上を確保することができました。
魚雷は、当時製造を行っていた佐世保の海軍工廠造兵部水雷工場と 三菱造船長崎兵器製作所から海上輸送されました。以前に軍艦堤防を投稿した際に取り上げた、三越漁港(長崎県東彼杵郡川棚町)の樺型駆逐艦「樺」を沈設した堤防は、佐世保からの魚雷輸送のために、昭和8年(1933年)に築造されたものです(写真2)。

【片島公園駐車場】
長崎県東彼杵郡川棚町三越郷140-26
以前は片山公園西側駐車場が指示されていましたが、なぜか西側駐車場からの入場はできないようです。西側駐車場には、観光交流施設(トイレ付)もあるのに不思議なことです。くわしくは こちら。
昭和17年(1942年)には、軍備品の増産と空爆被害の分散を図るために、佐世保海軍工廠の分工場が川棚に設置され、翌昭和18年には、川棚海軍工廠となりました。川棚海軍工廠は、川棚町の海浜約20ヘクタールを埋め立てて急造された広大な施設で、当時国内最大の水雷工場であったといわれています(図1)。
川棚への水雷工場にともない、独立した島だった片島は、海峡部が埋め立てられ、陸続きとなりました。
また、近隣には、横須賀にあった海軍水雷学校の分校も設置され、川棚は魚雷の町になりました(図1)。(図1)のもとPDFは こちら。
魚雷発射試験概要
搬入された魚雷は、発射場の工場内で分解・調整され、空気室への装気、燃料の注入、縦舵機調整などが行われました。各種調整後、魚雷は運搬台車で発射場まで運ばれ、魚雷卸口(写真6)から魚雷框に乗せた魚雷を水中約3mに設置し発射しました。
魚雷の射線に沿って、1000mごとに標的船と検査員が配置され、標的通過時の旗振りを観測所で視認して時間を計測し、雷速(速度)などが算出されました。発射された魚雷は、高速艇によって回収されました(図3)。

齋藤義朗氏作成、(齋藤義朗 2018年)から。
| 型式名称 | 製造開始 | 全長 | 炸薬量 | 雷速×射程 | 備考 |
| 六年式 | 大正8年~ (1919年) | 684cm | 205kg | 26kt×15km 37kt×7km | 水上艦用 (佐世保工廠) |
| 八年式 | 大正10年~ (1921年) | 841.5cm | 345kg | 27kt×20km 38kt×10km | 水上艦用 (佐世保工廠) |
| 九〇式 | 昭和5年~ (1930年) | 855cm | 400kg | 35kt×15km 46kt×7km | 水上艦用 (佐世保工廠) |
| 九三式一型 (酸素魚雷) | 昭和10年~ (1935年) | 900cm | 450kg | 36kt×40km 48kt×20km | 水上艦用 (佐世保工廠) |
| 九三式三型 (酸素魚雷) | 昭和19年~ (1944年) | 900cm | 780kg | 36kt×30km 48kt×15km | 水上艦用 (佐世保工廠) |
| 九一式改三 | 昭和18年~ (1943年) | 547cm | 235kg | 42kt×1.5km | 航空機用 (川棚工廠) |
| 九五式二型 (酸素魚雷) | 昭和18年~ (1943年) | 715cm | 550kg | 45kt×7.5km 48kt×5km | 水上艦用 (川棚工廠) |
(齋藤義朗 2018年)を参考にさせてもらいました。

齋藤義朗氏作成、(齋藤義朗 2018年)から。

現地案内図をもとに作成。
判定は、雷速と航跡の偏傾量(方向)、浮上するまでの時間、回収後の空気(酸素)・燃料消費量によって判断されました。合格品は、佐世保鎮守府で軍需品の管理を行っていた軍需部に納品されますが、不合格品は、調整後再度試射が行われました。
不合格となるおもな原因は、速度不足、蛇行、海底への接触や海面から飛び出しなどがあったようです。
施設概要
発射場
(写真1(A)・5~7)は発射場と突堤です。大正7年(1918年)完成。ともに国登録有形文化財です。
発射場は、陸地から約50m離れた海中にコンクリーブロックで構築した人工島です。上屋は、煉瓦造及び鉄筋コンクリート造3階建です。(写真6)の凹部が魚雷卸口で、ここから魚雷が発射されます。

(A)魚雷発射場突堤、(B)突堤北側護岸。

突堤上に引込線跡。
発射場と片島を繋いでいるのが突堤で、コンクリート造5連のアーチ橋です。橋長45m、幅員3.6mです。天端(上面)には二線の引込線跡が交錯しています。

先端は立ち入り禁止。魚雷発射用の凹部。上屋は煉瓦壁体鉄筋コンクリート造。

空気圧縮喞筒所・水雷調整場他
(写真1(B)・8~10)は、空気圧縮喞筒(そくとうじょ)所(空気圧縮ポンプ室)です。大正6年(1917年)完成、昭和14年(1939年)改築。国登録有形文化財です。
正面12m、奥行27mで、下部は石造です。上部は増築部で壁体は鉱滓煉瓦積です。

内部は2区画に分かれています。昭和14年1月以前は「機械場・水雷調整場」。

下部は石造。上部は増築で、壁体は鉱滓煉瓦積。
内部は2区画に分かれていて、当初完成時は機械場と水雷調整場でした。昭和13年(1938年)に第一魚雷調整場(写真11)が、昭和17年には第二魚雷調整場(写真12)が増築されたことから、空気圧縮喞筒所になりました。
1937年(昭和12年(1937年)から量産を開始した九三式などの酸素魚雷は、燃料の酸化剤となる酸素と、始動時の燃焼に使用される圧縮空気が必要であり、ここで酸素などの充填が行われたと考えられます。

(B)東側区画、(C)南側壁面。

基礎部分のみ。旧飛行艇格納庫。

調整場は基礎部分のみ、(C)片島神社鳥居。
(写真13)は燃料保管庫の油庫(ゆこ)、(写真14・15)は冷却水槽・貯水槽で、空気圧縮喞筒所・水雷調整場の付属施設です。油庫は、国登録有形文化財です。
(写真12(C))は、片島神社です。発射成績の向上を祈願して創建されました。
(写真15(C))は東側トンネルの北側坑口です。民間用地のようだったので、道路から撮りました。魚雷の一時保管の他、組み立ても行われていたようです。


(A)(B)空気圧縮喞筒所南側、(C)空気圧縮喞筒所東側、円形。

(A)(B)貯水槽(昭和17年完成) (C)トンネル北坑口(完成年不明)。
観測所
(写真16~18)は、片島の山頂付近にある、発射された魚雷の観測施設です。大正6年(1917年)完成、大正14年(1925年)改築。国登録有形文化財です。
煉瓦造および鉄筋コンクリート造2階建です。2階正面には広角に開いた観測用の窓を突出させています。



探信儀領収試験場
(写真19・20)は、探信儀領収試験場です。
「探信儀(たんしんぎ)」とは、海軍でのレーダーの名称で、「領収試験」は完成検査のことです。
昭和17年(1942年)に新たに完成した施設ですが、施設内容についての確認が取りませんでした。
ここに設置されたということは、おそらく対空用の電波探信儀(通称電探)ではなくて、艦艇搭載用の水中探信儀(アクティブ・ソナー)のことだと思います。水中探信儀は水中聴音機とともに、潜水艦や魚雷などを探知する機器です。

現在、かなり手前で立ち入り禁止になっています。

水中探信儀は、昭和8年(1933年)に九三式が初めて採用されましたが、その後ドイツ海軍の探信儀を参考に開発された三式、小艦艇用の軽便探信儀を含め、太平洋戦争終盤は海軍艦艇から大型商船に至るまで急速に配備が進められました。
川棚の探信儀領収試験場は、そうした状況下で設置されたと思われます。魚雷の試射が行われていたこの地は、水中探信儀の性能検査を行うのに最適な環境だったのでしょう。
探信儀領収試験場は、片島南西端の海中にあります。橋でつながっていたようですが、橋は現在ありません。何が理由なのかよく分かりませんで、かなり手前で立ち入り禁止となっています。
以下を参考にさせていただきました。
【参考文献】
・海軍水雷史刊行会『海軍水雷史』信行社 1979年
・齋藤義朗「片島魚雷発射試験場」『歴史群像』No.149 2018年
2024年4月現地、2026年6月2日投稿。
