織豊系城郭とは

 

織豊系城郭成立期 (1)

「織豊系城郭成立期」

シリーズ「織豊系城郭成立期」を始めたいと思います。今回初回です。

「織豊系城郭」とは、千田嘉博氏が1987年に提唱した用語・概念とのことです(千田 1987年)。千田氏や中井均氏らによると、「織豊系城郭」とは織豊時代(安土桃山時代)の城郭ということではなく、織田氏、豊臣氏と家臣団が築いた城郭であり、千田氏はこれに徳川氏を含んでいます。
安土城(滋賀県近江八幡市・東近江市)(写真1・5・6)、(豊臣)大坂城(大阪府大阪市)や名護屋城(佐賀県唐津市)(写真2)などの「天下人の城」がイメージされますが、これらは、中世城郭に対して先進的・革新的で、「城郭」としてはそれ以前とはまったく異なる性格をもって登場しました。軍事拠点であると同時に支配拠点であり、天下人の権威・権力の象徴として築かれました。

(1)  【安土城 伝二の丸下、黒金門後方曲輪】
名護屋城 上山里丸山里口
(2)  【名護屋城 山里口外枡形虎口】

しかし、安土城の時代には、坂本城(滋賀県大津市)や長浜城(滋賀県長浜市)などの支城があり、さらに軍事拠点としては陣城のような城郭も築かれました。
戦国末期は、鉄砲の出現もあり、戦術の変化に合わせて城郭構造は大きく進化していきました。虎口形態などそうした構造変化は安土城にも組み込まれましたが、こうした改良は織田氏だけが行ってきたものではありません。
信長の時代になると、同時代の文献史料から「織豊系城郭」であることが確認できる城郭もありますが、大多数の城郭、とくに山城の多くは、誰がいつ築いたのかを特定することが困難です。「織豊系城郭」に対する考古学的な類型化も進んでいるようにも思えません。しかし、近畿周辺については、どうも「先進的・革新的な構造」=「織豊系城郭」との認識からか、信長の侵攻と関連付けられることが多いように思えてなりません。ホントに「織豊系城郭」だけが先進的なのか、です。
安土城や大坂城を頂点とする「織豊系城郭」は、成立期と階層化した城郭群の下部に、「織豊系城郭」かどうが不確実なグレーゾーンを抱えていると思っています。こうした曖昧な状況については、高田徹氏がまとめています(高田 2017年)。
ここでは、過去に歩いた、おもに戦国時代末期から織田氏、羽柴(豊臣)氏の統一戦時代を対象に、織田氏、羽柴(豊臣)氏以外を含む、「織豊系城郭」に関連する城を紹介していきたいと思います。もちろん、「織豊系城郭」か「非織豊系城郭」か、誰がいつ築いたのかを特定しようなど大それた事を考えているわけではありません。

織田氏、羽柴(豊臣)氏以外を含む場合、中井均氏ら織豊期城郭研究会が定義づけた「織豊期城郭」の方が用語としては適当(便利)かもしれませんが、先進的とされてきた「織豊系城郭」との関わりの中で話を進めたいと思い、テーマは「織豊系城郭成立期」としておきます。裏テーマは「織豊系城郭はホントに先進的なのか?」です。

千田嘉博氏の「織豊系城郭」

千田氏の「織豊系城郭」論は、縄張り編年を行うことで城郭の変遷を明らかにすることを当初の目的としてスタートしています。この縄張り編年案の是非については議論もあるようですが、類型化は、画期的な試みとして評価されているようです。
千田氏は、「戦国~織豊期の城郭を大きく特色づけるものは虎口・横堀(石垣)の発達」(1989年)とし、これを、城道の「折れ」と虎口前「空間」から5類型2系列5期に分類しています(千田 1987年・1989年・2000年・2017年他)。

5類型2系列5期のうち2系列とは「外枡形」(A系列)と、「馬出」(B系列)です。「馬出」とは出入り口前の堀対岸につくった出撃用曲輪のことです。

(A) 虎口空間(外枡形)
(B) 虎口空間(馬出)

以下の要約は、(千田 2000年)をベースにしました。

【第Ⅰ期】 (~1559年)
 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前まで。
・第1類型 松平城タイプ
 松平城(愛知県豊田市)を標式とする。
 「0折、0空間」の平入り虎口。

【第Ⅱ期】 (1560年~1566年まで)
 桶狭間の戦いから永禄10年(1567年)の岐阜城築城前まで。
・第2類型 品野城タイプ
 品野城(愛知県瀬戸市)を標式とする。
 「1折、0空間」。虎口前(虎口受け)で一度城道を折り、横矢掛けを狙ったもの。

【第Ⅲ期】 (1567年~1575年まで)
 岐阜城築城から安土城築城前まで。
・第3類型 岐阜城タイプ
 岐阜城千畳敷(岐阜県岐阜市)(写真3・8)、宇佐山城(滋賀県大津市)(写真4)を標式とする。
 「2折、0空間」の食違い虎口。

【第Ⅳ期】 (1576年~1582年まで)
 安土城築城から豊臣大坂城築城前まで。
 外枡形の第4類型A1と、馬出の第4類型B1が分化。
・第4類型A 安土城タイプ
 安土城(滋賀県近江八幡市・東近江市)を標式とする。
 「2折、1空間」の外枡形虎口。安土城黒金門(写真5)では、2折れ(食違い)の城道の後方に小曲輪(写真1)。
 他に、七尾城(石川県七尾市)などがあります。
・第4類型B1 丸山城タイプ
 丸山城(三重県上野市)を標式とする。
 「2折、1空間」の馬出虎口。この段階は、虎口(馬出)空間が前方横堀を越えていない。
第4類型B2 大森城タイプ
 大森城(岐阜県可児市)を標式とする。
 「2折、1空間」の馬出虎口。虎口(馬出)空間が前方横堀を越えているもの。

【第Ⅴ期】 (1583年~)
 豊臣大坂城築城以降。
・第5類型A1 豊臣期大坂城タイプ
 豊臣大坂城を標式とする。
 「多折、多空間」の虎口。
 「外枡形後方曲輪の出入り口空間化、防御ラインの多重化、横堀と組み合わせた場合には、外枡形前の土橋を広くしたこと」を指標とする。
・第5類型A2 高取城タイプ
 高取城(奈良県高取町)を標式とする。
 「多折、多空間」の虎口。
 外枡形+虎口空間を連続するもの。
 他に、熊本城(熊本県熊本市)や、朝鮮の役の熊川城、西生浦城など。
・第5類型B1 玄蕃尾城タイプ
 玄蕃尾城(滋賀県長浜市、福井県敦賀市)を標式とする。
 「2折、1空間」の虎口。 
 虎口(馬出)空間後方を横堀で分離ししているが、虎口(馬出)空間四周の堀が不完全なもの。
・第5類型B2 岩崎城タイプ
 岩崎城(愛知県日進市)を標式とする。
 「2折、1空間」の虎口。 
 虎口(馬出)空間後方を含む虎口(馬出)空間四周の堀が完全なもの。
・第5類型B3 名古屋城タイプ
 名古屋城(愛知県名古屋市)を標式とする。
 「多折、多空間」の虎口。
 一般の曲輪も虎口(馬出)空間として機能させたもの。
 名古屋城では、本丸内堀と外堀間に堀切を設け、二之丸、西之丸、御深井丸とともに馬出を配置し、それぞれの出入り口を食違いにするなど、本丸枡形とともに城郭全体を虎口空間として機能させている。

織豊系城郭編年図
(図1)  【織豊系城郭編年図】
(千田嘉博 2000年)からの引用。
標式となる織豊系城郭
(図2)  【標式となる織豊系城郭】
(千田嘉博 1989年)からの引用。
岐阜城 千畳敷(居館)虎口
(3)  【岐阜城 千畳敷(居館)虎口】第3類型
宇佐山城 主郭虎口
(4)  【宇佐山城 主郭虎口】第3類型
安土城 黒金門
(5)  【安土城 黒金門】第4類型A

千田氏は、虎口を指標とする縄張り編年をもとに、「織豊系城郭」の歴史的意義を以下のように説明しています。「織豊系城郭は強い一貫性をもって系統的に発達」し、「織豊政権の統一の動きに合わせ、そのプランは全国に広まった」(1989年)。統一政権は、存続を許された各大名の城郭を直接把握して「織豊系城郭のプランが配布され」たとしています(千田 1989年)。
ただ、「織豊系城郭」の類型化は、織田氏、豊臣氏、徳川氏の(領域の)城郭を対照としたもので、縄張り編年は「織豊系城郭」が「進化」していく過程ではあるものの、他地域、他大名と相対化されているわけではありません。千田氏本人、「信長の居城が最初から時代の先端の城であったわけではない」(千田 2009年)と述べていますが、卓越した優位性がいかに達成されていったのかは、この縄張り編年からは読み取れません。
優位性は「進化」よりも「配布」なのかもしませんが、「強い一貫性をもって系統的に発達」は、織田氏、豊臣氏、(徳川氏)の優位性を誘導するような書き方で、織田氏、豊臣氏、(徳川氏)によって虎口形態が主導的に創作・改良されたかのような誤解を与えかねない表現だと思います。

千田氏は、「天下人の城」を考慮してか、第Ⅰ期(第1類型)と第Ⅱ期(第2類型)を切り離し、下記のように出入り口型式の再編案もしめしています(千田 2000年)。

【岐阜城型】
 織豊系城郭第3類型、くい違い虎口。

【安土城型】
 織豊系城郭第4類型、独立外枡形虎口。

【豊臣期大坂城型】
 織豊系城郭第5A類型、連続外枡形虎口。

【聚楽第型】
 織豊系城郭第5B2類型、馬出し。

【江戸城型】
 織豊系城郭第5B3類型、仕切り馬出し。

【元和型】
 織豊系城郭第6類型、定型枡形。

このうち、織豊系城郭第6類型は新たに設定されたもので、外枡形・馬出に変わって内枡形が定型化した段階です。

さらに、千田氏は新たな視点として、「並立型城郭」と「求心型城郭」を設定し、「織豊系城郭」の歴史的意義を、「並立型城郭」から「求心型城郭」への変化にあるとして、「大名の居所であった本丸を頂点とした階層的な城郭構造を備え、そうした階層構造を城下にまで貫徹して、城が一元的な都市核となった点に近世城郭としての本質的要件」(2000年)を認めました。

中井均氏の「織豊系城郭」

中井均氏も、「織豊系城郭」を織田・豊臣氏の城郭としますが、「礎石建物・瓦・石垣」を「織豊系城郭」の基本的な特色としました(中井 2021年aなど)。
千田氏の虎口の縄張り編年をもとづく「織豊系城郭」論と比較して、安土城を画期とする中井説は、「織豊系城郭」の特徴を端的に伝えるもので、わかりやすい視点ではあります。

安土城 天主穴蔵礎石群
(6)  【安土城 天主穴蔵礎石群】

中井氏は、安土城の出現によって、「普請」(土木工事)が中心であった中世城郭から、普請に加え、「作事」(建築工事)の比重が高くなったことを指摘し、これこそが「織豊系城郭」そして「近世城郭」の本質であるとしました。その上で、礎石建物・瓦・石垣を「織豊系城郭」の基本的な特色としました。
礎石建物・瓦・石垣は、個別には中世城郭にもあり、信長の小牧山城(愛知県小牧市)、岐阜城でも石垣は築かれていて、岐阜城では瓦も使用されていました。しかし、安土城において礎石建物・瓦・石垣が一体となった点を画期としています。
一体化の象徴が天守(天主)であり、防壁であった石垣は、礎石とともに、天守のような瓦葺きの重量建物を支える基礎を兼ねることとなったということだと思います。

「戦うだけの城ではなく、見せる城という、統一政権のシンボルとしての城を意図したもの」(中井 2017年)であり、城郭の本質的な性格の大変革と言えるかもしれません。

ただ、中井氏が指標とする礎石建物・瓦・石垣はそもそも寺社起源の技術です。律令制下では、品部として朝廷がかかえていた職掌集団は、その後寺社へ移行し、比叡山延暦寺をはじめとする有力寺社は、建築から石垣・庭園、さらには軍需にいたる先進技術をも保有する技能集団をもっていました。
安土城天主建設の大工棟梁岡部又右衛門は、熱田神宮の宮大工の棟梁であり、法隆寺番匠(宮大工)の中井正吉は、豊臣大坂城や京都方広寺大仏殿の建設を担当し、その子中井正清は、家康のもと大工頭として二条城、江戸城、駿府城、名古屋城、久能山東照宮、日光東照宮の建築を差配しています。
石垣については、弘治 2年(1556年)に、六角義賢が金剛輪寺で寺普請を担当したとされる「西座衆」に対し、観音寺城の石垣普請を依頼した記録が金剛輪寺の『下倉米銭下用帳』に残っています。ただ、安土城の石垣普請については残念ながら『信長公記』などに石工集団に関する記述はありません。信長による比叡山や百済寺の焼き討ちによって、寺院傘下の職掌集団が解体していた可能性もありそうです。
中井氏は、「矢穴」から、織田氏固有の石工集団の存在を想定しているようですが(中井 2021年a終章など)、私見では少なくとも「矢穴」が根拠になることはないと考えています(観音寺城矢穴 安土城矢穴)。

中井氏の「織豊系城郭」論は、安土城の画期を的確に捉えてはいますが、中世城郭から見ると「木に竹を接ぐ」ような関係であり、ベースとなる縄張りなどについて、中世城郭と織豊系城郭との関係ははっきりしません。
「支城」や「陣城」など「織豊系城郭」であっても礎石建物・瓦・石垣の一部ないしすべてをともなわない城郭の存在も認めてはいますが、あくまでも本城支城体制、城郭群の階層性の中でその存在を認めているだけで、それぞれの特徴に踏み込んでいません(中井 2021年a序章)。
虎口や横矢掛けなどについての考察もあるのですが、個別城郭や個別遺構の解説が多く、私にはなかなか要旨が読み取れません。もともと考古学脳ではないのか、どうも千田氏のような分類や類型化には否定的なのかもしれません。
中井氏は著作が多く(再録修正を含む)、一部しか読めてはいませんので、私の誤解があるかもしれません。

「織豊系城郭」とは

中井氏は高田徹氏の言として以下を引用しています。
「織田・豊臣氏(含む家臣団ら)による城郭が特徴的な構造・縄張りを備えていたことは、もはや疑うべくもない。他の戦国大名らの城郭と比べれば、その差はかなり歴然としていたのもほぼ明らかとなった」と。おそらく中井氏自身の考えでもあるのでしょう(中井 2021年a序章)。
確かに、安土城や大坂城といった天下人の城は、軍事拠点、軍事的防御施設であった城郭そのものの性格を大きく変えた画期的な城郭です。
築城時には特殊で突出した存在であった安土城や大坂城も、統一政権の全国支配が進むと、各地の大名は新たな支配拠点を必要とし、そこで「模倣(縮小コピー)」が行われます。築城技術は、朝鮮出兵の拠点となった名護屋城や陣屋群、倭城の築城やその後の天下普請などを通して広く共有されていったと思われます。金箔瓦など築城にあたってどの程度の規制が働いていたかは不明ですが、各大名の城郭の規模や構造は、織豊政権体制下で階層秩序を形成していったと考えられます。

安土城築城以降、地域支配・(軍事)行政拠点としての城郭が再整備されていく過程での織田氏、豊臣氏そして徳川氏の先進性・優位性は明らかです。しかし、「織豊系城郭」でもその成立期、おもに信長時代はどうでしょう。
戦国末期は、鉄砲の出現もあり、戦術の変化に合わせて城郭構造は大きく進化していきました。虎口形態などそうした構造変化は「織豊系城郭」に組み込まれていきますが、こうした改良は織田氏だけが行ってきたものではありません。
千田氏は、織田氏、徳川氏、武田氏、後北条氏など畿内・中部から関東にかけての太平洋側地域では、永禄から天正一桁代に、横堀の出現と曲輪内部の虎口に代表される機能分化、「横矢掛け」を狙った塁線を屈曲といった防御ラインが出現するとし、畝状空堀群が継続する地域との対比から、一応地域的な多様性・多元性を認めています(千田 1989年)。
元亀争乱期(1570年~1573年)の朝倉氏の城郭(陣城)については、本ブログでも紹介したことがありますが、朝倉氏の陣城の虎口は、織田方の虎御前山砦などに対して明らかに先進的に見えます(写真7)。
その後の「織豊系城郭」に連続する虎口形態が朝倉方にあることは、1980年代末から長谷川銀蔵・博美氏や石田敏氏、村田修三氏らによって指摘されています(村田 2017年)。

上平寺城 枡形虎口
(7)  【上平寺城 枡形虎口】(滋賀県米原市)朝倉氏配下「越前衆」普請。
岐阜城 千畳敷(居館)虎口
(8)  【岐阜城 千畳敷(居館)虎口】
一乗谷朝倉氏遺跡 下城戸
(9)  【一乗谷朝倉氏遺跡 下城戸】(福井県福井市)

岐阜城千畳敷の巨石積みの食違い虎口(写真3・8)も、時期的には一乗谷朝倉氏遺跡(福井県福井市)の下城戸(写真9)が先行する可能性が高いと考えています。

しかし、「織豊系城郭」の先進性・革新性を前提とし、その拡散を信長や羽柴秀吉、明智光秀らの侵攻と関連付けてことが多いように思えます。京都府教育委員会のwebサイトで、横矢掛けの塁線をもつ法貴山城(京都府亀岡市)(写真10)などを「明智光秀関連城館群」として紹介していますが (福島克彦 1988年)、北摂から丹波では、土塁囲繞の城郭の分布と系列があり、それらをすべて光秀の侵攻後とするには無理があります。

法貴山城 横堀
(10)  【法貴山城 横堀】

中井氏は、村田修三氏の言を引用して「地域史と在地構造分析」の重要性を述べ、千田氏も、「縄張り編年の作成は遺構の型式学的分析を基礎に有効な地域区分ごとに城郭構造の変遷をまとめること」(千田 1989年)で、「織豊政権側の城(織豊系城郭)と在地側の城を対比して把握すること」(千田 1989年)で、「織豊系城郭と平行して発達していった、各地の戦国大名の城郭を段階的に把握すること」(千田 1987年)の必要性を指摘しています。ただ、これは正論であっても建前論のようなもので、縄張り図さえ作成されていないものもある各地の膨大な城郭を分類し系統立てて整理していくことは簡単ではないのでしょう。
とはいっても、そこを軽視した結果が中井氏の「杉山城織豊系城郭説」ではないかと思っています。

中井氏は、杉山城(埼玉県嵐山町)と賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が本陣とした玄蕃尾城(福井県敦賀市・滋賀県長浜市)の縄張りの類似性から、杉山城が小田原合戦で前田利家らに築かれたとしました(中井 2009年)。しかし、「土橋に対する横矢、曲輪を巡る横堀、馬出し、急峻な切岸」(中井 2009年)が似ているとしていますがそれ以上の具体的な説明がありません。周辺地域で杉山城の縄張構造が孤立的であれば、他地域とのダイレクトの比較も必要ですが、杉山城に類似する構造は武蔵地域に確実に存在します。その後も、「角馬出、虎口に対して横矢が効く城は杉山城だけでないという視点も承知しているが、それらを統一的センスでまとめ上げた杉山城の縄張りはやはり玄蕃尾城に類似する」(中井 2021年b)としていますが、やはり具体性がありません。「型式という考古学的な分類法では、似る/似ないという点は極めて重要である」と述べていますが、私が知る限りでは、「型式」とは分類、類型化であり、個々の比較ではないはずです。どこの特徴が玄蕃尾城と同一グループに属し、杉山城周辺の城郭とは分離されるのかを説明すべきだと思います。

中井氏の「杉山城織豊系城郭説」については、西股総生氏の手厳しい批判があります。
「関東地方全体における城郭の「進化」過程の中に、杉山城を位置づけうるか否かを考察する手続きを省き、直線的に玄蕃尾城との比較を試みたところに、失当の原因があったのだろう。織豊系近世城郭を唯一絶対の完成形と見なし、織豊系近世城郭的要素の達成度をもって地域の城郭を評価するのではなく、戦国期城郭がそれぞれの地域ごとに辿ったはずの、独自な「進化」の道程を明らかにしつつ、織豊系城郭そのものも、一つの地域的な特徴をもった城郭群として相対化してゆく視角が、今後いっそう必要となってくる」(西股 2017年)。
まったくそのとおりです。

確かに、「織豊系城郭」は先進的・革新的です。また、織豊政権体制下に築かれた城郭は多くが文献史料を残していて、年代の基準になりそうな城郭は、地方へ向かえば向かうほど少なくなってしまいます。そうしたことから、地方への無関心、「先進的・革新的な構造」=「織豊系城郭」にもとづく畿内中心主義的目線が幅を利かせることになってしまうのではないかと思っています。
安土城は、「先進的・革新的な構造」といっても、従来とは明らかに異なる性格をもって登場した城郭です。ベースとなる縄張りは、尾根ごとに配置された独立した曲輪群が防衛拠点になっていて、大坂城のように城域の外郭全体が堀と石垣で区画されているわけではありません。安土城は、近世城郭のさきがけとして評価されていますが、縄張り的には中世的です。
最終的には「織豊系城郭」に収斂されていきますが、戦国時代末期から信長時代について、枡形虎口や馬出、塁線の折れといった「先進性」のオリジナルがかならずしも織田氏にあるわけではないと思っています。千田氏も中井氏もそうした考えではあると思います。
ただ、安土城の「先進的・革新的な構造」が拡大・過大解釈され、「織豊系城郭」、織田氏、豊臣氏の城郭全体が絶対視されてしまっているように感じることが多々あります。

次回以降、そのあたりの城郭群を紹介していきたいと思っています。
まずは、玄蕃尾城と杉山城です。

参考文献は、「織豊系城郭成立期投稿一覧にまとめてあります。

安土城2018年4月、名護屋城2018年11月、岐阜城2017年4月、宇佐山城2018年3月、上平寺城2022年3月、一乗谷朝倉氏遺跡2023年3月、法貴山城2025年3月現地、2026年3月11日投稿。