矢穴の話 (5)

 

石垣の起源をさぐる series 1

中世の石切場

岩瀬谷石切場(古墳群)

滋賀県湖南市正福寺
2023年4月

岩瀬谷石切場

滋賀県湖南市の岩根山(十二坊)周辺には、中世の石造物や石切場が多数あったようです。
岩瀬谷石切場は、2011年、野洲川支流大砂川の砂防ダム(堰堤)工事にともない行われた岩瀬谷古墳群の発掘調査の際に発見されました。

岩瀬谷石切場矢穴石
岩瀬谷石切場 矢穴石】
岩瀬谷石切場矢穴石
岩瀬谷石切場 矢穴石】
岩瀬谷石切場矢穴石
岩瀬谷石切場 矢穴石】

石切場といっても、現状では、古墳群D支群東側の川床に矢穴石(残念石)がひとつ残されているだけです。
2.7×2.0×1.9mの大きさで、矢穴列は上下にあり、3尺(約1m)の石を切り出そうとしていたようです。矢穴の長辺長は13~16cm。矢穴底は船底状です。
この矢穴石の年代ですが、隣接する古墳群の石室内から14世紀(鎌倉時代末~室町時代初期)の土器が出土していることから、その時期ではないかと考えられています。
鎌倉時代から室町時代前半期の石切場は、石仏や石塔の石材を獲得するための場です。大規模な掘削をともなうようなものではなく、適当な素材をさがしながら、転々としていたようです。ここでは、盗掘によって開口してしまっていた横穴式石室をキャンプ地としてようです。

岩瀬谷古墳群

岩瀬谷古墳群D支群です。古墳時代後期、6世紀後半の横穴式石室です。墳丘はほとんど残っていません。
新設の砂防ダム(堰堤)の建設により、将来的な土砂埋没範囲内にあるということで発掘調査が行われたようです。

岩瀬谷古墳群
【岩瀬谷古墳群】
岩瀬谷古墳群
【岩瀬谷古墳群】
岩瀬谷古墳群
【岩瀬谷古墳群】

岩瀬谷石切場は、県道27線から直線距離で1kmもない場所にありますが、藪漕ぎや途中川を徒渉・遡行しなければならないような秘境感のある場所だと聞いていました。
しかし、現地に行ってみると、2023年5月で3回目となる「滋賀湖南市十二坊トレイルラン&ウォーク」のルートの一部になったようで、一部ルートは整備されていました。気にしていたダム裏の降下も階段があり、気が抜けてしまいました。

岩瀬谷周辺地形図
【岩瀬谷周辺地形図】
背景図はカシミール3Dで作成。

県道27線沿いに岩瀬神社の鳥居があり、その脇に駐車スペースがあります。
石切場(古墳群)へは鳥居正面右手の舗装された砂防ダム管理用道路を登っていきます。

参考文献
・中井均『戦国の城と石垣』高志書院 2022年

湖東流紋岩と野洲花崗岩

湖東の地には、観音寺城を始め、織豊期以前の石垣をともなう城郭(寺院)が点在し、その後も安土城、八幡山城といった天下人の城が築かれます。
この地域で石垣に使用された石材は、湖東流紋岩(溶結凝灰岩)で、多賀町から永源寺にいたる山域、そして湖東平野にポツポツと島状に点在する岡山・長命寺山・鶴翼山・繖山・箕作山・瓶割山・雪野山・布施山などが湖東流紋岩体の山です。八幡山城(鶴翼山)・観音寺城(繖山)・安土城(安土山)・長光寺城(瓶割山)などの石垣石材は、基本城内(山内)で調達していたと考えられます。

流紋岩と花崗岩
【湖東流紋岩と野洲花崗岩】
背景図はカシミール3Dで作成。

一方、野洲市から湖南市、小堤城山城から岩根山(十二坊)は、野洲花崗岩体の山で、エリア内の小堤城山城・星ヶ崎城、野洲川左岸の三雲城の石垣は花崗岩です。
流紋岩と花崗岩では、主に火砕流が固まった流紋岩に対して、地下深部でゆっくり冷えて固まってできた花崗岩の方が硬質で、古くから石造物の素材として好んで用いられました。
岩根山(十二坊)周辺には、鎌倉時代からの石切場多数あったようです。岩瀬谷石切場はその一つです。そして、この周辺には、多数の磨崖仏や石造物があります。


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