矢穴の話 (4)

 

石垣の起源をさぐる series 1

当尾の石造物 (2) 矢穴の起源

岩船寺・東小阿弥陀石仏

京都府木津川市(旧当尾村)
2022年12月

矢穴の起源の話です。

岩船寺

岩船寺(いわふねでら)は、行基による開山と伝わる、浄瑠璃寺とならぶ南山城の古刹です。本尊は、像高約3mの阿弥陀如来坐像(天慶9年(946年))です。境内周辺には、国指定重要文化財を含むさまざまな石造物があります。

岩船寺三重塔
岩船寺三重塔】①

今回のテーマの「矢穴」は、三重塔の礎石にあります。
岩船寺三重塔は、南北朝期弘和2年(1382年)説もありますが、室町期嘉吉2年(1442年)の刻銘が確認されたことからこの時期の建立と考えられています。
ただし、現存塔は何代目かのもので、建物部分が嘉吉2年(1442年)だとしても、矢穴礎石については下限年代ということになります。

手前に生垣があり、三重塔周辺は残念ながら立入禁止(期間限定の公開はあるそうです)。写真は望遠で捉えたものです。
礎石は方形で、大きさは多分60~80cmぐらいでしょうか。大振りの矢穴が一辺4個確認できます。分かりますでしょうか。礎石上辺の波を打っているような凹部が矢穴です。
矢穴は各辺にありそうなので、小割りまで矢穴をもちいたようです。表面の風化したザラザラ感は花崗岩でしょうか。

岩船寺三重塔礎石
岩船寺三重塔 礎石
岩船寺三重塔礎石
岩船寺三重塔 礎石
岩船寺三重塔礎石
岩船寺三重塔 礎石

東小阿弥陀石仏

東小(ひがしお)阿弥陀石仏、通称「首切地蔵」です。花崗岩製です。
「首切」の由来は不明。そもそも「地蔵」ではなく「阿弥陀仏」です。
弘長2年(1262年)の作です。銘文が阿弥陀仏の両側光背部分にあるようですが、現状ではまったく読めません。

当尾首切り地蔵
【東小阿弥陀石仏
当尾首切り地蔵
【東小阿弥陀石仏
当尾首切り地蔵矢穴
【東小阿弥陀石仏 矢穴
当尾首切り地蔵矢穴
【東小阿弥陀石仏 矢穴・ほぞ

側面に国内最古級の矢穴が確認できます。半円形でかなり磨滅していますが、矢穴口長は12cmぐらいです。
なお、頂部に「ほぞ」(凸部)があり、上に笠石がのっていたことが分かります。

当尾map

矢穴の起源

7~8世紀、飛鳥時代から奈良時代には、終末期古墳の石室・石槨や宮都・官衙・寺院の基壇などで切石が多用されていますが、矢穴は発見されていないとのことです。この時代は、おもに凝灰岩系の軟質の石材を用いていたようです。
日本での矢穴技法に起源について、森岡秀人・藤川祐作さんは、治承4年(1180年)の平重衡南都焼討によって焼失した奈良東大寺の復興に心血を注いだ、俊乗房(坊)重源に注目しています。
重源は、中国南宋から石工を招碑しており、その来日集団の中に矢穴技法をもった工人が含まれていた可能性を考えているようです。
現状で最古の矢穴は、奈良県大和郡山市額安寺(かくあんじ)の花崗岩製宝筐印塔で、本塔には、「文応元年(1260年)十月十三日 願主永弘」と「大工大蔵安清」の銘があります。重源の中国南宋石工招碑と額安寺塔の間には、まだ半世紀以上の開きがあり、今後その間を埋める資料が今後確認できるかどうか。

補遺 酒船石の矢穴

奈良県高市郡明日香村にある酒船石(さかふねいし)は飛鳥時代の石造物です。国指定史跡に指定されています。
現存部の長さは東西約5.3m、幅(南北)約2.3m、厚さ約1m。表面に液の溜まり穴と溝の彫り込みがあり、酒の醸造に使用されたという言い伝えから「酒船石」と呼ばれていますが、実際の用途は明らかになっていません。
この長辺(南北辺)側にはなんと矢穴痕が並んでいています。
ただこれは飛鳥時代の矢穴ではなく、高取城築城時に切断されたAタイプの矢穴です。
江戸時代の国学者である本居宣長が明和9年(1772年)に記した紀行文『菅笠日記』には、「此石むかしをは猶大きなりしを、高取の城きつきしをりに、かたはらをば、おほくかきとりもていにしとぞ」とあり、高取城築城時の様子が地元に伝承として残っていたことが分かります。

酒船石
【酒船石】
酒船石矢穴
【酒船石 矢穴】

参考文献
・森岡秀人・藤川祐作「矢穴の型式学」『古代学研究』第180号 古代学研究会 2008年
・森岡秀人・藤川祐作「3.矢穴調査報告」『額安寺宝筐印塔修理報告書』大和郡山市文化財調査報告書18集 2011年


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