コラム (1) 曲輪(屋敷)名(観音寺城補遺)
安土城の屋敷地
観音寺城のように、屋敷地(曲輪)に伝承として家臣名をもつ城郭はそれほど珍しいものではありません。もちろん、すべてが後代の「創作」とも言い切れませんが、戦国武将の武功を物語としてまとめた軍記物語が人気であった江戸時代には、軍記物につながるような「創作」はありがちなことのだったと思います。
観音寺城に隣接する安土城(滋賀県近江八幡市安土町・東近江市)には、現在、本丸、二の丸から屋敷地に至るまで、多くの曲輪に「・・邸址」などの標柱が建てられています。
しかし、信長当時の実際の名称は、『信長公記』に記述のある「天主」、「御殿」、「殿主」、「南殿」、「江雲寺御殿」、「おもての御門」、「二丸」などだけで、これらも実際にどの場所のことなのか確定しているわけではありません。
上図は信長の百回忌に際して、貞享4年(1687年)に描かれた「近江国蒲生郡安土古城図」です。
現在の屋敷地名等の多くは、この古城図の注釈にもとづいています。
しかし、「天主」が「天守」になっていたり、城内城下に屋敷をもっていなかった徳川家康の屋敷地があったり、(控えめにみても)すでに記憶の多くが失われた段階だと思われます。
家康は、本能寺の変直前の天正10年(1582年)、信長の招待で安土を訪れた時には、信長の指示で城下の大宝坊を宿舎にしたことがわかっています。
上図は『近江蒲生郡志 増補 昭和篇』収録大正4年11月測量の「安土城趾図」で、測量図に、貞享絵図に由来する名称をいれたものです。
しかし、秀吉邸の反対側にある「前田利家邸」や、下図にある「三の丸」、「米蔵」、「煙硝蔵(硝煙蔵)」などは、上記両図に記載がありません。
これらは、昭和4年(1929年)の信長三百五十回忌の際に、根拠もなく勝手に命名されたもののようです。
大手道脇の伝羽柴秀吉邸は、上下2段の曲輪からなり、櫓門、書院造の主殿など豪壮な建物が並んでいました。しかし、秀吉邸である確証はなく、一族や重臣の屋敷なのか、あるいは迎賓館といった公的な施設なのか、さまざまな意見があるようです。
こうした伝承名は想像をかき立てるものではありますが、ニヤリ(^▽^)と笑った(命名者の)好事家さんのしたり顔も見えてきそうです。
2024年7月3日投稿