観音寺城 (16)

 

観音寺城主要部 (2) 伝本丸

伝本丸の遺構

伝本丸です。江戸時代の鳥瞰絵図では「本城」となっていますが、現状「本丸」が通称になっています。
伝本丸は、公的(ハレ)な「主殿」が想定される伝平井丸から連絡道を登った奧にあることから、私的(ケ)な、六角氏当主の日常的な生活の場である「常御殿」を中心としたエリアになると思います。
曲輪は、南から西辺に土塁(石塁)が築かれていて、とくに城外側となる西辺は内側中段に武者走りを備えています。

伝本丸石塁
(1)  【伝本丸 土塁(石塁)】
伝本丸の土塁は、南から西辺に築かれています。(b)(c)は2段になっています。

観音寺城では、1969~1970年に伝本丸を含む主要部の発掘調査が行われていて、伝本丸では、「礎石建物跡、溝、石段、井戸、水溜石枡、持仏堂の基壇など」(滋賀県立安土城考古博物館 1995年)が確認されているようです。1971年に報告書が刊行されているようですが、確認できていないため詳細は不明です。ただ、全体の遺構図(滋賀県立安土城考古博物館 1995年・2009年)、と『まぼろしの観音寺城』(田中 1979年)掲載図からある程度推測することができます。

観音寺城主要部
(図1) 【観音寺城主要部】
滋賀県立安土城考古博物館(2009年)からの転載です。
まぼろしの観音寺城掲載図
(図2) 【伝本丸 遺構配置略図】
田中政三氏(1979年)からの転載です

6~7棟の建物跡が復元されていますが、(図2)の(ヌ)については、県は建物跡として認めていないようです。礎石が密に並んだ南西側の大型建物跡(図(チ))が御殿。その裏(西側)の(図2(チ))は蔵でしょうか。(ニ)の基壇が県のいう「持仏堂」だと思います。
中央部に御殿と棟方向が直交する中型の建物2棟。北西虎口、北東虎口のある北端エリアとの間には溝一と柵列のような遮蔽施設があります。
伝本丸は、山頂部では尾根筋の途中に築かれているため、尾根上部(北東側)を避け、南西側を中心としています。

伝本丸発掘調査
(2)  【伝本丸上段発掘調査状況】
滋賀県立安土城考古博物館(1995年)からの転載です。
伝本丸溜枡
(3)  【溜枡(貯水槽)】
石積みの穴蔵は、発掘調査によると深さ約2mで、石の目地を漆喰で埋めた溜枡(貯水槽)とのことです。百済寺(滋賀県東近江市)では、絞り水を溜めるための竪坑が切岸の直下に掘られています。この場所では、少なくとも絞り水は期待できないと思いますが、全体図を見ると水路で導水しているようです。

瓦はまったく出土していないとのことなので、屋根は板葺きか檜皮葺きです。
建物はほとんどが礎石立ちのようです。

礎石建物は古代からありますが、寺院や宮都や官衙に限れていました。武家層に普及したのは、室町時代に守護や守護代クラスが室町将軍家の邸宅(花の御所)や細川管領邸を模して守護所、方形居館を築くようになってからのようです。城郭で採用されるのは、やはり織豊期で、この段階は瓦葺きとセットになります。戦国時代については、主要部をこれだけの範囲発掘調査し例が少ないからかもしれませんが、観音寺城のように、礎石のみならず基礎部分のほとんどを石造りにしているのはやはり特殊で、山上の守護館ということなのだと思います。
ただ、ちょっと気になるのが発掘調査後の処置で、溜枡(貯水槽)の状況を見ると、保存のための養生もされずに埋め戻しも適当です。礎石らしきものも顔を出しています。
発掘調査をするのは良いですが、そのままの状態では破壊です。

伝本丸の虎口

南虎口

伝本丸のメインルートは、伝平井丸を経由すると思われます。伝本丸では南虎口が出入り口になります。虎口内側で建物跡が確認されていますが、番所でしょうか。

伝本丸南虎口
(4)  【伝本丸 南虎口】
伝本丸大石段
(5)  【伝本丸 大石段】
大石段

現状の伝本丸には大仰な大石段があり、観音正寺と桑実寺を結ぶ山越え道がとおり抜けてしまっていて、常御殿としてはオープンにもみえます。
これについては、観音正寺と桑実寺の間で、伝本丸を含む繖山西尾根を係争地とする山論(境界争い)が、江戸時代長期にわたって続いていることから、双方からのルートはその主張に合わせて改変整備されていると思われます。
大石段については別に投稿していますが、2008年度に行われた発掘調査によって、「大石段との接続部分に石塁があることが確認され、伝三ノ丸と大石段はつながらないことが明らかとなりました」(滋賀県教育委員会 2011年)とのことです。この大石段は、近世観音正寺が築いた可能性が高いと思います。

北東虎口

北東虎口は、曲輪側正面に建物がありますが、この虎口は通用門的なものだと思います(次回)。写真は次回。

北西虎口(薬師口見付B)

北西虎口は通称「裏虎口」とも呼ばれています。観音寺城唯一の食違い虎口です。県報告(滋賀県教育委員会 2012年)では、これを「薬師口見付」としていますが、『まぼろしの観音寺城』(田中 1979年)、『五個荘町史』(村田 1992年)では、伝伊藤邸西側を「薬師口見付」としています。
ただ、そもそも「薬師口見付」は、根拠となる江戸時代の鳥瞰絵図に記載はなく、吉田勝氏、田中政三氏による命名だと思うので、さして問題ではありませんが、一応ここでは、伝本丸北西虎口を「薬師口見付B」、伝伊藤邸を「薬師口見付A」としておきます。

伝本丸北西虎口薬師口見付B
(6)  【伝本丸 北西虎口】
伝本丸北西虎口薬師口見付B
(7)  【伝本丸 北西虎口】
(A)(B)は内側から。(D)は外側から。
【伝本丸動画】

この伝本丸北西虎口(薬師口見付B)について、滋賀県は、「周囲の状況からみて後から改修されたものである可能性があります」(滋賀県教育委員会 2011年)としています。どのあたりを具体的に問題としているのかは不明ですが、たしかに、北西虎口から桑実寺に通じる薬師口道には、桑実寺の参道を示す「丁石」が置かれているなど、江戸時代に整備されていることは間違いないと思います。虎口外に水の手の「太夫殿井戸」があることも疑問ではあります。

薬師口道
(8)  【薬師口道】福井県福井市
「薬師口」名は、桑実寺の本尊が薬師如来で、西国薬師霊場の第四十六番の札所であることによります。丁石は伝本丸本姓虎口(A)が「十丁」です。
太夫殿井戸
(9)  【太夫殿井戸】
名称の由来は不明。この石組みはさすがに江戸時代以降か。
太夫殿井戸
(10) 【太夫殿井戸】

ただ、石垣の食違い虎口(枡形虎口)自体は、ダンダ坊遺跡(滋賀県)にもあり、石垣も垂直に近く((写真7)(A)(B))、部分部分でみれば織豊期よりは明らかに古いと思います。さすがに16世紀前半の定頼時代まではさかのぼらないとは思いますが。

ダンダ坊
(11)  【(参考)ダンダ坊】滋賀県大津市
ダンダ坊の最奧部にある屋敷跡の虎口です。領主的性格をもつ坊主兼地侍の「天台山徒(山法師)」の居宅と思われます。

また、桑実寺は、定頼が将軍足利義晴を迎えて仮御所(幕府)としたところで、六角氏との縁も深い古刹です。この点を考慮すると、薬師口道と北西虎口(薬師口見付B)を搦手道、搦手虎口と考えてしまうのは誤りで、格式のある門だった可能性もありそうです。

伝本丸を「常御殿」エリアとした場合、直に城外に開口する虎口の存在には疑問が残りますが、伝本丸上部エリアを見てみると、観音寺城全体の中でも、思いのほか堅固に計画され築かれていると思います。次回はその部分です。

掲載写真撮影位置図
(図3) 【掲載写真位置図】

「伝●●邸(丸)」はあくまでも曲輪(坊院)の固有名として使用するだけで、実際にその家臣屋敷であった可能性はまったく考えていません。

家臣名については こちら でまとめています。

参考文献は、「観音寺城投稿一覧」にまとめてあります。

観音寺城(17)、伝本丸上部曲輪群に続きます。


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