伝木下秀吉陣跡 (1)
織豊系城郭成立期 (7)

虎御前城の陣跡群
虎御前山城(虎御前砦)は、小谷城攻防戦の織田方の陣城(向城)です。
虎御前山の陣城群は、南端の八相山を含め丘陵全域に及んでいたと考えられています。
信長自身が上杉謙信に宛てた書状では、「虎御前山と申ニ、地利三ヶ所申付候」とあり、これは虎御前山に砦(地利)3か所を築いたと解されています(高田徹 2013年)。おそらく、これは、伝木下秀吉陣跡+伝柴田勝家陣跡、伝織田信長本陣跡+伝佐久間信盛陣跡、伝堀秀政陣跡ではないかと推定します。これに南端部の八相山砦を加え、あとは未整備のまま駐屯地として利用したのではないかと思われます。
伝木下秀吉陣跡
陣跡名は、江戸時代に描かれた絵図によるもので、同時代史料にもとづく根拠はありません。
現在、伝木下秀吉陣跡を信長本陣とする考えも有力視されていますが(中井均 2020年など)、結論が出るような話でもないので、今回は、地点名として従来の伝承名を使用します。

高橋成計氏作図、キャプション追加、図一部加除。(高橋 2018年)から。
伝木下秀吉陣跡は、虎御前山の北端にあり、小谷城と直接対峙しています。山麓平野部で測ると、虎御前山と小谷山の間はわずか400mです。
伝木下秀吉陣跡の最高所である主曲輪上段は、虎御前山山頂部にあたり標高244m。これに対して小谷城本丸は350m、大嶽城が築かれた小谷山山頂は494.6mで、虎御前山城は見下ろされる位置関係になりますが、圧倒的な兵力差を見せつけることになったのではないかと想像します。
全体の曲輪配置は、山頂部の古墳を中心とした「主曲輪」と「東曲輪」に分けることができます。写真の量が多いので、2回にわけ、今回は主曲輪を投稿します。
伝木下秀吉陣跡 主曲輪
主曲輪は、山頂部の古墳(円墳)を中心として、平面三角形の曲輪群を階段状に重ねています。
古墳墳頂部の「主曲輪上段」から「主曲輪中段」、「主曲輪下段」と連なり、さらに北東から西辺部には「最下段」の腰曲輪が囲繞しています。腰曲輪は「東曲輪」にも連続し、一部は横堀状になっています。主曲輪各段の切岸は2mから3mほどで、曲輪面は概ね平坦に仕上げられています。
古墳を利用しつつ尾根筋を階段状に普請する構造は、伝織田信長本陣跡、伝堀秀政陣跡と共通しますが、伝木下秀吉陣跡は、曲輪縁辺に土塁を築いています。ただし、土塁は断続的で低く痕跡程度です。
虎口は、主尾根伝織田信長本陣跡側の「南虎口」と、北西尾根伝柴田勝家陣跡側の「北西虎口」、他に不確実ですが「南東虎口」、「北東虎口」があります。いずれも主曲輪中段の虎口ですが、「北西虎口」は、下段・最下段と虎口が連続します。
主曲輪上段への導線は不明。現在階段が付けられていますが、当時のルートははっきりしません。主曲輪と東曲輪の導線も不明確です。


(B)西側土塁、(C)東側土塁。)
(写真2~4)は、主稜線南側の虎口前通路と南虎口です。通路は両側に竪土塁を築いていて、これは、周山城(京都府京都市右京区)本丸東側の石塁をともなう通路を想起させます。
この土塁囲みの通路は、主曲輪上段手前でY字に二手にわかりますが(写真4(A))、一応(写真3(A))の左側に登る部分を「南虎口」(門跡)としておきます。

上部から。(B)東側土塁、(C)西側土塁。
(写真1・9(A))は、主曲輪上段全景です。古墳時代の円墳と推定されます。古墳の大きさはこんな感じ。
円墳をそのまま利用しているとすると、主曲輪中段面が築城前の地表面ということでしょうか。東曲輪東端とはかなり比高差があることから、旧地形は平坦面が少なかったのかもしれません。

(B)「木下秀吉陣地跡」標柱、(C)南虎口側。
(写真5)は主曲輪上段面です。古墳墳頂部としてはやや広いと思うので、多少削平されている可能性があります。古墳の大きさはこんな感じ。
(写真6)は、主曲輪中段西辺部です。縁辺には土塁が残っています(写真6(A)(C))。主曲輪下段西辺部は腰曲輪状です(写真6(A))。
(写真6(B))は北西虎口(主曲輪中段)です。

(A)中段西辺土塁と下段腰曲輪、(B)北西虎口(中段)、(C)中段西辺土塁と下段腰曲輪、左側は主曲輪上段。

(A)手前(城外側)から、(B)堀切は土塁をはさんで二重か、(C)上から。
(写真7)は、北西外虎口です。二重堀切と思われますが(写真7(B)(C))、現状はほとんど深さがありません。
北西外虎口から北西虎口(主曲輪下段)、北西虎口(主曲輪中段)は、食違いに設置されています。北西外虎口から北西虎口(主曲輪下段)のルートは動画にあります。

(写真8(A))は、主曲輪中段南辺で、(写真4(A))の左側(東側)ルート上です。(写真8(A))の反対側に(写真8(B))の南東虎口があります。虎口下には竪堀(写真8(C))があったり、虎口下から先のルートがはっきりしません。開口部のように見えますが、虎口かどうかは不確実です。

(A)東側から主曲輪上段方向、(B)主曲輪中段北東辺土塁、(C)主曲輪中段東端部側。
(写真9)は、主曲輪中段東側です。(写真9(C))は中段の東端側です。土塁はやはり痕跡程度です(写真9(B))。
(写真10)は、主曲輪中段東端から見た下段東端です。横堀状に見えます。(写真11(A))は、その横堀部分です。(写真11(A))の反対側は(写真8(C))の竪堀につながっています。ただし、北側に回り込むと帯曲輪になります(写真11(C))。(写真11(B))は古墳とその周溝のようにも見えます。

中段から(写真11(A))の横堀状。

(A)下段東端部横堀状腰曲輪、(B)東端から主曲輪中段側、(C)下段北東辺。

(B)主曲輪中段から虎口と翳堀、(C)翳堀(左)と最下段腰曲輪。
(写真12)は、主曲輪下段北東辺の「翳(かざし)堀」と呼ばれている凹地です。(写真11(C))の先にあります。
中井均氏は、これを虎口前面に設けられた堀(翳堀)と説明しています(中井 2020年)。現地にも「かざし堀」の看板があります。ただ、そもそもの虎口がはっきりしません。現状階段が付けられている場所を「北東虎口」(写真12(B))としておきますが、北西虎口からの導線を想定すると、現階段(北東虎口)は翳堀の手前になってしまいます。現状他に虎口の痕跡があるわけでもありません。
翳堀は「天水溜まり」と称されるものにも似ていますが、小谷城側に設置するのも不自然です。性格不明の長方形土坑です。

(A)主曲輪上段から中段、(B)主曲輪中段から下段・最下段側。

(写真13・14)は、主曲輪北端です。(A)が主曲輪上段から中段、(B)が主曲輪中段から下段・最下段側を見ています。
(写真14)は、主曲輪下段から上部を見ています。中段・上段が2段になって見えます。

(写真15)は、主曲輪最下段北東辺部腰曲輪です。次回投稿します。

高橋成計氏作図、(高橋 2018年)掲載図を使用させてもらいました。
伝木下秀吉陣跡、続きます。
主曲輪中段東端の横堀状遺構、曲輪最下段腰曲輪の動画は、次回の伝木下秀吉陣跡(2)にあります。
参考文献は、「織豊系城郭成立期投稿一覧」にまとめてあります。
2024年12月、2025年11月(虎御前山城)現地、2026年6月22日投稿。
