虎御前山城 (1)

 

概要と小谷城合戦
織豊系城郭成立期 (6)
小谷城と虎御前山城
(1)  【小谷城と虎御前山城】
(A)小谷城、(B)虎御前山城。小谷城清水谷入口付近、同じ位置から撮っています。

虎御前城と織豊系城郭

虎御前山城(虎御前砦)(滋賀県長浜市)は、浅井長政が籠もる小谷城攻防戦の織田方の陣城(向城(むかいじろ)/付城)です。『信長公記』によると、元亀3年(1572年)7月27日から8月8日の間に築かれました。

私が最初に虎御前山城を訪れたのは、10代のころで、●●年前のことになります。小谷城とともに登りました。このころから落城・廃城好きで、小谷城についてはその後4~5回は登っているのですが、虎御前山城については、当時「土の城」に興味がなかったこともあり再度登ることはありませんでした。攻め手側の城はこんなもんかなと思ったような...正直、ほとんど記憶に残っていません。

ここ最近、朝倉氏の陣城を歩いていて、改めて織豊系城郭成立期の山城について関心をもつようになり...朝倉氏の陣城から織豊系城郭というのも変な話ですが、朝倉氏は、元亀年間にいち早く土塁囲み+腰曲輪(横堀)を採用し、これにもとづく虎口の複雑化や横矢掛けの塁線を指向します。その後の「織豊系城郭」に連続する虎口形態などが朝倉方にあることは、1980年代末から長谷川銀蔵・博美氏や石田敏氏、村田修三氏らによって指摘されています(村田 2017年)。しかし、一方で、高橋成計氏は若狭・近江での朝倉氏築城とされる城砦の現況の多くを織田、羽柴氏の改修と考え、朝倉氏城郭の先進性を否定しています(高橋成計 2016年)。
このあたりのことは過去の投稿を参考にしてください。

それでは、元亀・天正年間に朝倉氏と対峙していた織田氏の城郭はどうなのか、ホントに虎口形態や塁線などに「先進性」が認められるのか、ということになるわけです。
虎御前山城は、信長時代の標式的な「織豊系城郭」で、ブログ記事上はずせない城ということで2024年12月に登ってきました。当時一部で話題になっていた伝織田信長本陣跡東側、大洞谷尾根部の竪土塁についても行くつもりだったのですが、この時は夕方近くになってしまったために断念し、この部分については2025年11月に行ってきました。
2024年12月は南側の虎御前山公園駐車場から、2025年は小谷城駐車場から歩きました。

虎御前山城GPSトラックデータ
(図1)  【虎御前山城GPSトラックデータ】
青線:2024年12月、赤線:2025年11月、背景図はカシミール3Dから作成しました。

【虎御前山公園駐車場】
滋賀県長浜市中野町352
登山口のすぐ前にあります。無料です。(写真4)参照。

【虎御前山北側登山口】
登山口に駐車場はありません。小谷城戦国歴史資料館(滋賀県長浜市小谷郡上町139)前の駐車場(無料)を利用しました。(写真9)参照。

虎御前城と小谷城合戦

虎御前山(長尾山/虎姫山)は、小谷城の南側に対峙する南北約2.1kmの独立丘陵です。南端の尾根筋については、別に八相山(中野山)とも呼ばれています。最高所は、伝木下秀吉陣跡主曲輪(古墳墳頂)で標高224m、丘陵下との比高差は約130mです。伝織田信長本陣跡の標高もほぼ同じです。

小谷城から虎御前山城全景
(2)  【虎御前山城全景】
小谷城御馬屋跡付近から。奥は琵琶湖、琵琶湖側右端丘陵は山本山城。
小谷城合戦関連城郭図
(図2)  【小谷城合戦関連城郭分布図】
背景図はカシミール3Dから作成しました。
横山城  浅井氏の支城であったが、姉川の戦いの後開城。木下秀吉が城番となる。虎御前山城築城以前の織田方の前線基地。
大依山砦姉川の戦い前の浅井・朝倉勢の陣城。
雲雀山砦元亀元年(1570年)6月、元亀3年7月に織田軍が陣を置く。
宮部砦元亀3年(1572年)8月、虎御前山城と横山城の繋ぎの城として築かれる。
八相山砦虎御前山南端。元亀3年8月、虎御前山城と横山城の繋ぎの城として築かれる。
月ヶ瀬城浅井方の支城。天正元年(1573年)8月8日に開城。ただし、現推定地は虎御前山とあまりにも近く不自然。
山田山天正元年(1573年)8月10日に織田勢が陣取る。
焼尾砦大嶽城北方の浅井方の砦。天正元年に築かれ浅見対馬が入るが、同年8月12日に寝返る。位置不確実。
山本山城浅井氏重臣阿閉貞征の居城。天正元年8月8日に織田方に寝返る。
田部山城天正元年8月に朝倉勢が陣取るが、同年8月13日敗走。
田上山城天正元年8月10日に朝倉義景が本陣を置くが、同年8月13日敗走。その後、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀長の陣所となる。

虎御前山城は、小谷城攻防戦の織田方の陣城(向城)です。虎御前山が『信長公記』に最初に登場するのは姉川の戦い直前の元亀元年(1570年)6月21日で、『信長公記』に「信長公は諸勢を召列れられ、虎御前山へ御上りなされ」とあります。信長は虎御前山に陣取り小谷城下を焼き払いますが、この時はすぐに陣を姉川南岸に引いています。
6月28日の姉川の戦いで浅井・朝倉勢に勝利した信長軍は、横山城を攻略、木下秀吉を城番として小谷城攻めの前線基地としました。

その後しばらく姉川が攻防ラインになっていましたが、元亀3年(1572年)7月になり、信長は姉川を越えて虎御前山に進み、包囲網を一気に小谷城の眼前にまでせばめました。
虎御前山城はこの時築かれました。7月27日より築城が開始され8月8日ころには完成したようです。短期間ですが、『信長公記』によると、

「この山の景観を生かした仕上がりには、 誰もが「多くの城を見聞したが、これほどのものは見たことがない」と言い、目を見張って驚いた。座敷からは、浅井・朝倉勢が守備する大嶽山(おおづくやま)、西は琵琶湖から比叡山、さらには南の石山寺、東は伊吹山が一望できる」

陣城に御座敷まであったことに驚かされます。
さらにこの時、信長は横山城と虎御前山城をつなぐ軍道の整備も行い、途中に八相山砦と宮部砦を築いています。虎御前山城と宮部の間は、地盤の状況がよくなかったことから、排水施設と水堀、防御用の築地を備えた幅7mの道路を新設しました。
元亀3年の侵攻は、9月16日に一部の兵を残したまま撤退します。浅井勢はこの機を狙い、同年11月3日に道路を破壊しようと軍勢を差し向けますが、秀吉らによって撃退されています。

元亀3年後半から翌年前半の信長は、岐阜城に籠もり停滞します。これは、武田信玄の西上戦に対する備えでした。

武田勢が撤退すると、信長は積極的に動きます。元亀4年(天正元年)(1573年)7月18日には、暗躍していた将軍足利義昭を追放。そして、8月8日には、浅井方山本山城の阿閉貞征の寝返りを機に小谷城攻めを再開します。

今回は、小谷城北側の山田山に陣取り、浅井・朝倉勢を分断し、小谷城の支城群を次々と落としました。8月13日には、敗走する朝倉義景を越前・近江国境の刀根坂の戦いで破り、越前敦賀に進みました。
『信長公記』には、8月8日から13日に織田勢が落とした城として「焼尾、月ヶ瀬、丁野山、田部山、義景本陣田上山、引壇、敦賀、賤ガ岳、若狭粟屋勝久の城に対峙して敵方が築いた城」の10か所を列記しています。「若狭粟屋勝久の城に対峙して敵方が築いた城」とは、以前投稿した中山の付城(福井県美浜町)と推定されています。

8月18日に越前一乗谷に侵攻し朝倉氏を滅ぼした後、信長は8月26日に虎御前城にもどりました。翌日から小谷城を総攻めし、8月27日には、虎御前山城で浅井久政の首実検が行われています。そして、9月1日に浅井長政は自害し、小谷城は落城しました。

【永禄13年/元亀元年(1570年)】

4月20日   織田信長、京から越前遠征出陣。
4月25日信長、朝倉方の金ヶ崎城支城天筒山城を攻める。
4月28日信長、浅井長政の離叛により撤退(金ヶ崎の退き口)。
6月浅井長政、朝倉氏に依頼し、美濃国境に長比城・上平寺城を築く。
『信長公記』元亀元年六月 「浅井備前(長政)越前衆軍勢を呼越し、たけくらべ(長比城)・かりやす(苅安(尾)城/上平寺城)両所に要害を構え候」
6月19日長比城・上平寺城開城。長政が城将として配置した堀秀村と樋口直房が織田方の調略によって寝返る。
信長、即刻出陣し、長比城に入る。
6月21日信長、虎御前山に着陣。小谷城下を焼き払う。翌日撤退。
6月24日信長、横山城を攻める。徳川家康合流。
長政、朝倉景健率いる朝倉勢と合流し、大依山に進む。
6月28日浅井・朝倉勢、姉川(野村・三田村)まで兵を進める。
姉川の戦い。織田・徳川勢の勝利。
横山城降伏。木下秀吉を城番とする。
9月16日朝倉義景・浅井長政、織田方の宇佐山城(滋賀県大津市)周辺に侵攻。さらに山科・醍醐まで進出する。信長が摂津で三好三人衆と石山本願寺との交戦中をねらう。志賀の陣。
9月24日信長、浅井・朝倉勢の籠もる比叡山を包囲する。
12月14日講和の成立により、両軍撤退する。

【元亀2年(1571年)】

8月18日  信長、久しぶりに近江に出陣。小谷城北の余呉、木本周辺に放火。
9月12日 織田勢、比叡山延暦寺、日吉神社などを焼き討ち。15日まで。

【元亀3年(1572年)】

3月5日     信長、小谷城北の余呉・木本周辺に放火して挑発するも、浅井・朝倉勢出兵せず。
7月19日信長、総軍5万余を率いて小谷城攻めに向かう。
7月27日虎御前山城築城開始。
『信長公記』元亀三年七月廿七日 「七月廿七日より、虎後前山御取出の御要害仰せつけらる」
7月29日朝倉義景、小谷城に着陣。その後、小谷城の防備に不満をもち、大嶽城に移る。
『信長公記』元亀三年七月廿九日 「此表の為躰(ていたらく)見及び、抱へ難く存知、高山大づくへ取上げ居陣なり」
8月8日虎御前山城完成。築城と同時に、横山城からの軍用道を整備する。
『信長公記』元亀三年八月八日 「虎後前山御取出御普請程なく出来詑、御巧を以て 当山の景色興ある仕立 生便敷御要害見聞に及ばざるの由候て 各耳目を驚かされ候」
9月16日 信長、虎御前山城から横山城に兵を引く。その後岐阜城へ。
12月3日朝倉義景、大嶽城から兵を引く。
12月22日遠江三方原の戦い。徳川家康、武田信玄に敗れる。

【元亀4年/天正元年(1573年)】

2月10日   武田軍、三河野田城を落とす。しかし、その後動きを止める。
7月18日信長、将軍足利義昭を追放。
8月8日浅井方山本山城の阿閉貞征、織田方に寝返る。浅井方月ヶ瀬城開城。
同日、信長小谷城攻めに出陣。
8月10日信長、全軍を小谷城北方の山田山に移す。
救援の朝倉義景は、本陣を田上山城に置く。
8月12日浅井方焼尾砦の守将浅見対馬が寝返り、織田軍を引き入れる。信長自身が大嶽城に攻め上り落とす。信長、そのまま丁野山城を攻め開城させる。
8月13日織田勢、朝倉義景本陣の田上山城を攻める。義景敗走。
同日、越前国境の刀根坂の戦いで朝倉勢敗北。
8月18日織田勢、越前一乗谷に攻め込み焼き払う。
8月20日朝倉義景、朝倉景鏡の裏切りにより横死。朝倉氏滅亡。
8月26日信長、虎御前城にもどる。
8月27日織田勢、小谷城の総攻めを開始。
9月1日浅井長政自害、小谷城落城。

虎御前城の陣跡群

虎御前山の陣所は、南端の八相山を含め丘陵全域に及んでいた可能性があります。虎御前山城はいくつかの陣城群からなっていて、北から、伝柴田勝家陣跡、伝木下秀吉陣跡、伝織田信長本陣跡、伝堀秀政陣跡、伝滝川一益陣跡、伝丹羽長秀陣跡、伝蜂屋頼隆陣跡、伝多賀貞能陣跡が南北に並び、伝織田信長本陣跡の東側尾根に伝佐久間信盛陣跡があります。伝蜂屋頼隆陣跡、伝多賀貞能陣跡は八相山砦推定地と重なります。

虎御前山城全景東から
(3)  【虎御前山城全景】
東側から。
虎御前山城古絵図
(図3)  【虎御前山古絵図】
「虎御前山古砦図」(彦根藩井伊家文書)(滋賀県教育委員会 2011年)から。

これら陣跡名は、江戸時代に描かれた絵図によるもので、同時代史料にもとづく根拠はありません。小谷城攻めには、徳川家康も参加していたことから、小谷城跡を藩領としていた井伊家彦根藩によっていくつかの絵図が作成されたようです。
現在、伝木下秀吉陣跡を信長本陣とする考えも有力視されていますが(中井均 2020年など)、今回は、地点名として従来の伝承名を使用します。

虎御前公園登山口周辺
(4)  【虎御前公園登山口周辺】
(A)登山口(手前に駐車場)、(B)(C)矢合神社、(D)「多賀貞能陣地跡」標柱(矢合神社南側)。
伝蜂屋頼隆陣跡
(5)  【伝蜂屋頼隆陣跡】
伝丹羽長秀陣跡
(6)  【伝丹羽長秀陣跡】
伝滝川一益陣跡南側斜面古墳群
(7)  【伝滝川一益陣跡南側斜面古墳群】
(A)(B)前方後円墳。
伝滝川一益陣跡
(8)  【伝滝川一益陣跡】
(A)(B)周辺古墳群、(C)「伝滝川一益陣跡」標柱。

ただし、現状遺構から城砦跡と考えられる地点は、伝柴田勝家陣跡、伝木下秀吉陣跡、伝織田信長本陣跡、伝堀秀政陣跡、伝佐久間信盛陣跡で、伝滝川一益陣跡から南側は、古墳群はあるものの、城郭遺構と考えられるものははっきりしません。伝丹羽長秀陣跡については旧青少年野外活動センター跡地であり、全体が削平されています(写真6)。

伝柴田勝家陣跡

虎御前山北西部にあり、小谷城と対峙する伝柴田勝家陣跡については、尾根頂部の平坦地(曲輪群)ははっきりしませんが、北側斜面部を中心に、塹壕状の横堀(腰曲輪)が約100mに渡って掘削されています。現地は藪が酷く、通しで歩くことはできませんが、奈良国立文化財研究所の文化財総覧WebGISの背景図(地理院タイル)によく表現されています(図6)。

虎御前山城主要部
(図5)  【虎御前山城主要部全体図】
高橋成計氏作図、一部加除。(高橋 2018年)から。
虎御前山主要部立体図
(図6)  【虎御前山城主要部立体図】
奈良国立文化財研究所の文化財総覧WebGISの背景図(地理院タイル)から。
北登山口と伝柴田勝家陣跡
(9)  【北登山口と伝柴田勝家陣跡】
(A)(B)北登山口、(C)伝柴田勝家陣跡北西部段曲輪。
北登山口現地解説板
(10)  【虎御前山城現地解説】
北側登山口。
伝柴田勝家陣跡北斜面横堀(腰曲輪)
(11)  【伝柴田勝家陣跡北斜面横堀(腰曲輪)】
伝柴田勝家陣跡古墳群
(12)  【伝柴田勝家陣跡古墳群】

信長自身が上杉謙信に宛てた書状では、「虎御前山と申ニ、地利三ヶ所申付候」とあり、これは虎御前山に砦(地利)を3か所築いたと解されています(高田徹 2013年)。おそらく、これは、伝木下秀吉陣跡+伝柴田勝家陣跡、伝織田信長本陣跡+伝佐久間信盛陣跡、伝堀秀政陣跡ではないかと推定します。これに南端部の八相山砦を加え、あとは未整備のまま駐屯地として利用したのではないかと考えます。
伝木下秀吉陣跡、伝織田信長本陣跡、伝堀秀政陣跡、伝佐久間信盛陣跡は次回以降に投稿します。

今回は、おもに下記文献を参考にしました。


・滋賀県教育委員会『小谷城をめぐる城々』埋蔵文化財活用ブックレット7(近江の城郭2) 2011年
・高田徹「織田期の「向城」」『織豊城郭』第13号 織豊期城郭研究会 2013年
・高橋成計「越前朝倉氏の築城技術の疑問点 越前国と他国築城縄張りの相違について」『中世城郭研究』第30号 中世城郭研究会 2016年
・村田修三「織豊系城郭から近世城郭へ」『織豊系城郭とは何か その成果と課題』サンライズ出版 2017年
・中井均「虎御前山砦」『図解近畿の城郭Ⅳ』戎光祥出版 2017年
・高橋成計『織豊系陣城事典』戎光祥出版 2018年
・高田徹「虎御前山城」『近江の山城を歩く』サンライズ出版 2019年
・中井均『信長と家臣団の城』角川選書633 2020年
・高田徹「城郭構造からみた「姉川・小谷合戦関連城郭群」について」『長比城・須川山砦跡総合調査報告書』米原市埋蔵文化財調査報告書第5集 2022年

参考文献は、「織豊系城郭成立期投稿一覧にもまとめてあります。

2024年3月(小谷城)、2024年12月、2025年11月(虎御前山城)現地、2026年6月18日投稿。