浅井三姉妹 江(崇源院) 墓 (2)

 

江(崇徳院)

浅井三姉妹は、浅井長政と織田信長の妹、市との間に生まれた茶々、初、江です。それぞれ豊臣秀吉、京極高次、徳川秀忠の正室・側室になりました。
江(崇源院(すうげんいん/そうげんいん)は、2代将軍徳川秀忠との間に、千姫(豊臣秀頼室)、珠姫(前田利常室)、勝姫(松平忠直室)、初姫(京極忠高室)、家光(3代将軍)、忠長(駿河大納言)、和子(後水尾天皇中宮)の2男5女をもうけました。徳川将軍家で正室が将軍・天皇中宮生母となったのは江のみです。

墓所は東京芝の増上寺(東京都港区)の徳川家霊廟(徳川将軍家墓所)ですが、今回は、高野山奧之院(和歌山県高野町)、金戒光明寺(京都府左京区)の供養塔です。

高野山奧之院 忠長造立五輪塔

江(崇徳院)の墓塔(供養塔)で最も有名なのが高野山奧之院の五輪塔だと思います。
これは「一番石/一番碑」と呼ばれている通り、高野山奧之院で最も巨大な墓塔です。

高野山奧之院崇源院塔1
(1)  【崇源院 五輪塔】高野山奧之院
高野山奧之院崇源院塔2
(2)  【崇源院 五輪塔】高野山奧之院
日本一の巨大五輪塔は、石清水八幡宮境内の「航海記念塔 」で、高さは6..08mです。これは見たことがあるのですが、写真が出てきません。

高さについては書いてあるものによってまちまちですが、いつも参考にしている木下浩良氏(2014年)によると、五輪塔が4.902m、基壇部分が3.125m、総高8.027mです。基壇部分の面積はほぼ畳八畳だそうです。写真にしてしまうとその大きさが分かりにくいのですが、石灯籠と比べてみてください。
五輪塔地輪(方形部)正面には、「寛永四年丁卯九月十五日」、「崇源院殿一品太夫人昌譽大禅定尼」、「駿河大納言源忠長造立」などが刻まれています。
崇源院の死去が寛永3年(1626年)9月15日であることから、将軍家光の弟徳川忠長がその一周忌に際して造立したが分かります。
基壇裏面には、「石作 泉州黒田村甚左衛門」とあり、泉州黒田(現大阪府阪南市黒田)の石工の手によるものです。

江(崇源院)と実子である家光、忠長兄弟、そして春日局については、
「家光(竹千代)は乳母の春日局に育てられたが、秀忠夫婦とくに正室江は忠長(国千代/国松)を溺愛。これを憂慮した春日局は駿府にいた大御所家康に家光の世継を確定させるように直訴。家康は後に江戸城に出向き、家光が将軍家の跡継ぎであると宣言した」
といった話が有名です。

春日局の役回りを含め、創作を含むと考えられているようですが、家光と忠長の関係は、とくに崇徳院死去以降修復困難な状況に陥っていきました。
忠長は、寛永8年(1631年)12月に蟄居を命ぜられ、寛永10年(1633年)12月6日には幕命により自害しました。他藩の伝聞記録によると、彼個人の素行・乱行が原因のようではありますが。

この五輪塔の造立については、幕府の公式史書である『徳川実紀』の寛永4年7月18日の条に、「崇源院宝塔を高野山に構造あり、石面の題名書法は金地院崇伝会して」とあり、幕府(家光)としては、苦々しく・・・かもしれませんが、一応容認していたと思われます。
しかし、寛永5年には三回忌に合わせて宝台院(旧龍泉寺)(静岡市葵区)を再建し、崇源院霊廟を造営します。この事が幕府側の逆鱗に触れ、忠長は増上寺での法要への参列が許されませんでした。
その後、宝台院崇源院霊廟は廃され、霊廟内にあった宮殿は祐天寺(東京都目黒区)に移され現存しています。

前回紹介した、家光による死後の崇源院に対する破格の待遇は、家光自身が崇源院を嫌っていたようには見えないのですが。すべてが天皇中宮生母に対する家光の政治的セレモニーかもしれませんが。。

金米山宝台院
【拝観時間】9:00〜16:00(最終入場15:45)【休館日】月曜日(祝日の場合は翌平日)【拝観料】500円昭和15年の静岡大火で建物は焼失してしまいましが、本尊や徳川家の遺品が残っています。

明顕山祐天寺
境内の拝観は可能なようですが、詳細は不明。
宮殿 は通常非公開のようです。

高野山奧之院 京極家造立宝塔

高野山奧之院には、徳川忠長の五輪塔以外にも丸亀藩京極家が造立した崇徳院の供養塔(六角形宝塔)があります。
京極家と崇徳院との関係は深く、浅井三姉妹次女初(常高院)は京極高次の正室であり、高次の長男忠高の正室は崇徳院の四女初姫でした。

もともと初(常高院)が崇源院のために建立した廟屋があったようですが、破損により修理を幕府に申し出たところ、将軍家綱から宝塔にするよう指示があり、銀を給わったとのこと。

ただし、これは今回調べていて知ったので、写真はまだありません。

高野山奧之院京極藩崇源院塔
(3)  【崇源院 宝塔】高野山奧之院明治時代古写真
『松原典明(2018年)からの転載です。
高野山奧之院案内図
【高野山奧之院供養塔】
『高野山奥の院の墓碑をたずねて』高野山宿坊組合・高野山観光協会・高野山参拝講 から
これは現地で販売されているマップです。2017年のものなので、現在は更新されているかもしれません。

金戒光明寺 供養塔

金戒光明寺(京都府左京区)の供養塔です。
境内東側の墓地の入口付近、坂の手前左手にあります。アフロで有名な五劫思惟阿弥陀仏の奧になります。2016年ですが、会津藩殉難者墓所へ向かう途中、たまたま案内板を見付けてお詣りしました。

金戒光明寺墓地
(4)  【金戒光明寺 墓墓地】
文殊塔(三重塔)手前から。
金戒光明寺
(5)  【金戒光明寺】
(A)高麗門、(B)山門、(C)極楽橋、(D)五劫思惟(ごこうしゆい)阿弥陀仏
金戒光明寺崇源院塔
(6)  【崇源院 宝篋印塔】金戒光明寺
正確な大きさは不明ですが、周囲の墓碑と比べて飛び抜けて大きかったと記憶しています。

宝篋印塔です。現地の解説によると、三代将軍を争った春日局が、崇徳院の供養のために造立したもので、崇徳院の遺髪が納められているとのこと。
金戒光明寺には、春日局と徳川忠長の供養塔もあるそうですが未確認。春日局は金戒光明寺塔頭蓮池院と関係がありそうですが、それ以上の詳細は不明。

金戒光明寺
境内の拝観は無料です。
マップは江(崇源院)供養塔の位置です。忠長の供養塔もGoogleマップ上にあるのですが(崇源院の左上)、空中写真に変えると建物の中になってしまうので、場所がずれていそうです。

他に、京都市東山区の養源院には、江(崇徳院)の五女、東福門院和子(後水尾天皇中宮)が建立した宝篋印塔があるそうです。養源院はお詣りしたことがあるのですが、宝篋印塔は気がつきませんでした。

参考文献
・木下浩良『戦国武将と高野山奧之院』朱鷺書房 2014年
・松原典明「徳川将軍家の宝塔造立事情再検討 崇源院宝塔を事例として」『近世大名葬制の基礎的研究』雄山閣 2018年

浅井三姉妹とその縁者、まだ続きます。


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