虎口と胸墻土塁・大砲
長崎台場 (6)
幕末の城 (8)

四郎ヶ島台場(長崎県長崎市)は、佐賀藩によって築かれた長崎警備のための台場(長崎台場)です。嘉永3年(1850年)に設計を行い、翌年に着工、嘉永6年3月に完成しました。
工事と並行して、佐賀藩では幕府や薩摩藩などに先んじて150ポンド砲などの大砲の鋳造を行っています。
今回は、内部施設の紹介と備砲についてです。遺構としては、虎口、トンネル状の埋門、砲弾止めの胸墻土塁、砲眼付き土塁、井戸などがあります。現在見ることはできませんが、弾薬庫の御石蔵(玉薬庫)もありました。
四郎ヶ島台場は、今回最終回です。
四郎ヶ島台場の遺構(3)
四郎ヶ島と小島はもともと独立した島で、築城時に両者の間が埋め立てられました。史料・絵図によると、四郎ヶ島台場は、「四郎ヶ島(四郎島)」地区と埋立地を含む「小島」地区に区別されていて、絵図(図3)では、それぞれ「四郎島御台場」「小島御台場」の註書きがあります。
四郎ヶ島地区は、「山上(上段)」と西側の「下段」に分かれていて、「山上(上段)」は土塁によって東区・西区に、東区はさらに東西に区画されています。

(長崎市教育委員会 2011年b)からの転載、一部加筆。
虎口
内部への出入り口施設です。「虎口」の呼称がこの時期の台場に使用されていたのかは不明ですが、ここでは「虎口」としておきます。
(写真2)は、連絡道から四郎ヶ島地区山上(上段)へのルートです。石段は当時のものとのことで(長崎市教育委員会 2016年)、藪の中、現状でもなんとか歩くことができます。絵図(図2)では「表坂道」の註記があります。

(A)現在の登り口付近、背後が山上(上段)、(B)(C)石段、(D)北東虎口前。

(A)(B)入口側から、(C)反対側から。
(写真2(C)・3)は、山上(上段)東区の北東虎口です。虎口両側は高さ2m程度の土塁で内壁に石垣が築かれています。
(写真4)は、山上(上段)西区の北虎口です。両袖の石垣は、四郎ヶ島地区北西側石垣上段の石垣Bです。
(図1)によると、北虎口前から石垣A・B間の腰曲輪状の通路を進むと、四郎ヶ島地区下段の北西虎口に通じるはずですが、まったくの藪で確認できませんでした。なお絵図(図3)によると、北西虎口は砲座になっています。
絵図(図2・3)では、虎口に門などの施設は描かれていません。




(A)山上(上段)側(東口)、(B)山上(上段)側から、中央閉塞石、 (C)山上(上段)側から東口、(D)下段側から西口側。
(写真1・5~7)は、四郎ヶ島地区山上(上段)と下段をつなぐトンネル状の埋門です。両側の石垣上に横長の天井石を載せています。坑道は長さ10m弱あります。下段側西口の坑口の高さはちょうど大人の身長ぐらいだったと思いますが、上段側東口(写真7(A))は、かなり埋まった状態で、坑道内部も途中で閉塞のための石積みがありました。
(写真6)は、下段側の埋門前通路です。塹壕状です。塹壕状の通路や埋門は、砲戦時を想定した施設だと思います。
土塁
四郎ヶ島地区山上(上段)と下段の外周および内部は、幅広の土塁(石塁)で区画されています。
塁線は隅角をつくらず曲線を描いています。
山上(上段)と下段内部は藪がひどく、引きで写真を撮ることがほとんどできませんでした。(図5)の撮影位置も不確実です。

北虎口から埋門西口の間。

(A)外周土塁手前の低段(砲座)、右仕切り土塁、(B)低段(砲座)、(C)外周土塁本体。
四郎ヶ島地区山上(上段)・下段の土塁は、3類に分けることができます。
山上(上段)については、虎口周辺など砲座と関連しない北側(A類)と、南側を中心とした砲座側(B類)とでは土塁の形状が違っています。
【A類】(写真8)は、北虎口から埋門の間の山上(上段)西区の内壁です。北東虎口の(写真3(C))を含め、高さ1~2m程度の石垣がほぼ垂直に築かれています。
【B類】(写真9)は、山上(上段)東区です。本体の土塁手前に砲座となる低段があるのが特徴です。低段には石積みがありますが、本体の土塁(胸墻)内壁にはおそらく石垣はありません(写真9(C))。土塁の断面形は山形ないし台形になると思います。
(写真9(A))右側の土塁は、山上(上段)東区を東西に分ける仕切り土塁です。形状はA類です。
(写真10)の四郎ヶ島地区下段南側の土塁C類は、山上(上段)のA・B類とはまた別ものです。
【C類】内壁に石垣をもちますが、A類ほど高くはありません。この土塁(石塁)では、大砲の砲身を突き出す砲眼(砲門)(写真18)を備えています。

(A)下段土塁、(B)(C)下段土塁砲眼。
小島地区南側の土塁(写真15・16)は、深い藪で状況はよく分かりませんが、(図1)を見る限りでは砲座をともなうB類のようです。
井戸
(写真11・12)は、四郎ヶ島地区北西側石垣Bに埋め込まれている井戸です。 区画形状は旧陸軍の砲台の三点濾過式井戸をともなう貯水所とよく似ていますが、陸軍の砲台の丸井戸は貯水槽です。
深さは分かりませんが、はたして真水を汲み上げることができるのでしょうか。


御石蔵(玉薬庫)
以前投稿した魚見岳台場(長崎県長崎市)では、弾薬庫である「御石蔵」が現存しています。
文化5年(1808年)のフェートン号事件後に築造された「新台場」「増台場」の時期から、大砲、弾薬は各台場に常備されるようになり、御石蔵が築かれました。

(品川区立品川歴史館 2011年)からの転載、一部加筆。北西側石垣の形状などが実際とは違っています。埋門も描かれていません。

(長崎市教育委員会 2011年b)からの転載。
四郎ヶ島台場の「御石蔵」は現状で見ることはできませんが、絵図には描かれていて、発掘調査でも基礎の一部が確認されています(長崎市教育委員会 2016年)。
絵図(図2)の註記は「玉薬庫」で、他に「石造小玉薬庫」などの名称もあるようです。
位置、基(棟)数は絵図によってまちまちで、(図2)では四郎ヶ島地区山上(上段)に3基、小島地区に3基ですが、(図3)では、四郎ヶ島地区山上(上段)5基、小島地区に2基が描かれています。(図2)では四郎ヶ島山上西区の付箋の下にもう1基あるのかもしれません。

視察に随行した米沢藩士窪田茂遂のスケッチ。(長崎市教育委員会 2011年b)からの転載。
形状は、魚見岳台場の御石蔵が、切石造り瓦葺き切妻屋根で、周囲を石垣で被覆しているのに対して、四郎ヶ島台場の御石蔵は、嘉永7年(1854年)に米沢藩士の窪田茂遂の描いたスケッチによると平屋根の台錐形のようです(図4)。なかなか想像しにくい形状ですが、(図2・3)も台錐形に見えます。
絵図(図2)では、他に「番屋」「御道具庫」などの施設が確認できますが、兵舎は不明です。
胸墻土塁と大砲
胸墻土銘
胸墻(きょうしょう)(胸壁)土塁について補足しておきます。胸墻土塁とは大砲の前方に築かれた砲弾止め土塁のことで、幕末期に各地で築かれた台場には一般的に認められます。
しかし、成立時期が17世紀にさかのぼる長崎台場では、文化9年(1812年)竣工の魚見岳台場など「古台場」「新台場」「増台場」段階にはありません。四郎ヶ島台場など「佐賀台場」段階になってから築かれるようになったようです。長崎台場の変遷については、こちら をご覧下さい。

(東京都港区) (A)北東辺石垣・土塁、(B)(C)南東辺土塁。

(長野県佐久市)
嘉永7年(1854年)竣工の品川台場(港区・品川区)では、西洋式にもとづく台場の築造が行われ、ここでは、砲撃の標的となる高石垣を止め、砲撃によるダメージを軽減するための分厚い幅広の土塁を採用しています(写真13)。
四郎ヶ島地区山上(上段)の土塁については、藪で規模感がつかめませんでしたが、(図1)や絵図の(図2・3)では幅広の土塁が描かれています。
また、小島地区南側では、石垣E上部に胸墻土塁を築いていて、石垣は土塁に及んでいません(写真15・16)。
石垣=護岸、土塁=砲弾止め の分離は、西洋式の品川台場第三台場・第六台場、五稜郭(北海道函館市)、龍岡城(長野県佐久市)(写真14)に共通しています。
四郎ヶ島台場の設計者と考えられている佐賀藩士本島藤太夫は、四郎ヶ島台場設計年の嘉永3年(1850年)に伊豆の韮山に訪れ、当時西洋式築城術・砲術の第一人者で品川台場設計者である江川英龍(坦庵)の指導を受けています。
従来の城郭にも、「腰巻石垣」はありましたが、四郎ヶ島台場の土塁については、西洋式築城術によるものと推定されます。


台場時代以降の開削か。
四郎ヶ島台場の備砲
四郎ヶ島台場の備砲は、魚見岳台場など従来の御公儀台場の「和砲」ではなく、嘉永3年(1850年)に日本初の実用反射炉である築地反射炉(佐賀県佐賀市)で鋳造された大砲(鉄製カノン砲)です。
嘉永4年の配備計画では、150ポンド砲2門、80ポンド砲8門、36ポンド砲2門、12ポンド砲2門の計14門だったようです(長崎市教育委員会 2016年)。ただ、備砲の総数と内訳は、史料・絵図によってまちまちで、絵図(図2・3)の付箋、註記も配備計画とは違うようです。
なお、ポンド砲とは、砲弾の重さによる区分で、150ポンド砲は、砲弾(球弾)の重さが約68kg(150ポンド)、直径は約27cmです。
当時最強の150ポンド砲は、佐賀藩に続き薩摩藩でも安政4年(1857年)に鋳造を成功させ、薩英戦争で使用しています。仙巌園(鹿児島県鹿児島市)の反射炉前に原寸大の150ポンド砲のレプリカがあるらしいのですが、私が行ったときにはありませんでした。こちら は、園内の鹿児島世界文化遺産オリエンテーションセンターの模型です。

(福井県おおい町) (C)ロルパードル・キスト・アホイト模式図、(長崎市教育委員会 2011年b)からの転載。原典は淺川道夫氏とのことですが、著作名を確認できませんでした。

(鹿児島県南大隅町)
大砲を支える砲架には、「ロルパードル」式と「キスト・アホイト」式があり(写真17(C))、前者から後者に移行したようです。
ロルパードル式は、砲架台に小型の車輪が付くものもありますが、旋回はしません。
キスト・アホイト式は、砲架台が大砲の方向を変える「砲架下部」と「砲架上部」に分かれています。細長い井桁状の砲架下部は、前方を軸として旋回します。
(写真17(A)(B))は、若狭小浜藩が築いた松ヶ瀬2号台場(福井県おおい町)のキスト・アホイト式復元大砲です。大砲については、モデルが明記されていませんでした。
砲架上部は、砲架下部に渡した縦方向の桁木をレールとして前後にスライドし、発射時の衝撃を和らげる構造になっています。車輪のように見えるのは砲架上部を動かすためのハンドルです(写真17)。
大砲の前方砲弾止めの胸墻(きょうしょう)土塁については、首線方向が基本動かないロルパードル式は砲眼(砲門)をもち(写真18)、回転可能なキスト・アホイト式は砲眼を設けないことが一般的なようです。
四郎ヶ島台場では、四郎ヶ島地区下段の土塁に砲眼が認められものの、山上(上段)、小島地区については確認されていません。ただ、山上(上段)の砲座部分については発掘調査が行われていて、キスト・アホイト式と推定されるような遺構は発見されていないとのことで、報告書(長崎市教育委員会 2016年)では、ロルパードル式を想定しているようです。
ただ、四郎ヶ島台場土塁B類は(写真17)の松ヶ瀬2号台場より高く、砲眼はありません。どういった砲架だったのか、参考例がないため想像できません。

和式と西洋式
幕末の城については、なんでもかんでも「西洋式」に関連付ける傾向があり、正直それはどうかと思っています。
四郎ヶ島台場でも、小島地区南側石垣Eの南東隅を「稜堡」としたり、山上(上段)の曲線を描く塁線を西洋式する見解があります。「稜堡」には「横矢掛け」しての役割もありますが、本来は十字砲火を目的したもので単独では成立しません。曲線の塁線は魚見岳台場にもあり、はたして西洋式かどうか。
しかし、四郎ヶ島台場の塁線、虎口、石垣と土塁の構築部位など、個々それぞれは和式とも西洋式とも解釈はできますが、全体としてみると、従来とは異なる城郭であることは間違いないと思います。
この時代、西洋式についての関心は高かったと思いますが、西洋式築城術を学びそれなりに理解した人物はおそらくごく少数で、伝聞であったり誤った解釈のまま設計が行われたり、五稜郭のように、施工段階で改変されてしまった例もありました。
和式とも西洋式とも一括りにできない「西洋的和式」が「幕末の城」ということなのでしょう。
四郎ヶ島台場、終了です。
今回は、おもに
・長崎市教育委員会『四郎ヶ島台場跡 範囲確認調査に伴う石垣測量調査報告書』2011年b
・長崎市教育委員会『史跡長崎台場群四郎ヶ島台場跡保存活用計画書』2016年
・長崎市教育委員会『四郎ヶ島台場跡 第1次~第3次発掘調査報告書』2012年
を参考にさせてもらいました。
参考文献は「幕末の城投稿一覧」にまとめてあります。
四郎ヶ島台場2024年4月現地、2026年10月3日投稿。
