石垣と石丁場(矢穴)
長崎台場 (5)
幕末の城 (7)

四郎ヶ島台場(長崎県長崎市)、2回目です。嘉永6年(1853年)に完成した長崎警備の台場(砲台)です。
今回は石垣と石丁場(矢穴)です。次回最終回です。
四郎ヶ島台場の遺構(2)
外石垣
四郎ヶ島台場の外壁の石垣(外石垣)は、A~Fの6か所で確認することができます。
(写真1~5)が、四郎ヶ島地区北西側石垣(石垣A)です。
(写真6・7)が、四郎ヶ島地区南西側石垣(石垣C・D)です。
(写真8)が、小島(埋立)地区南側石垣(石垣E)です。
(写真9)が、四郎ヶ島台場 小島地区突堤(石垣 I)です。
(写真10)が、小島(埋立)地区北側石垣(石垣F)です。
石垣B・C・Dは、藪のため全体を見ることはできませんでした。

(長崎市教育委員会 2011年b)からの転載、一部加筆。
他に、前回投稿した波止(防波堤)を兼ねた連絡道の石垣G・Hがあります。
(写真9)の石垣 I は、連絡道の石垣G・Hに似た巻石の石垣ですが、報告書(長崎市教育委員会 2011年・2016年)で対象としていないことから、その後に築かれた防波堤かもしれません。
虎口や土塁内壁にも石垣は築かれていますが、今回No.は振っていません。写真は次回投稿します。
石垣の築造目的
四郎ヶ島台場は、長崎湾口にあたる四郎ヶ島南側を警備海域にしていますが、外石垣は、砲座が設置されている四郎ヶ島地区山上(上段)前面(南面)には築かれていません。一方、石垣A・Bの後方に砲座はありません。このことから、四郎ヶ島台場の石垣は、戦闘にともなう防御施設として築かれたものではないことが分かります。
石垣A・Bは東シナ海(五島灘)側に、石垣E・Fは四郎ヶ島と小島間の埋立地の両岸にあることから、四郎ヶ島台場の石垣は、土塁内壁を含め、護岸・擁壁として築かれたと考えられます。
砲座前面にある小島地区埋立地の石垣E(写真8)も、上部の砲弾止めの土塁(胸墻土塁)に石垣は及んでいません。
以前、同じ長崎台場の魚見岳台場(長崎県長崎市)を投稿しましたが、魚見岳台場では、砲座の前面に切込み矧ぎの高石垣を築いています。これは、敵艦を威圧する台場の顔であり、防御施設としての石垣です。
四郎ヶ島台場の竣工年は嘉永6年(1853年)ですが、魚見岳台場はこれよりも古く文化9年(1812年)の完成です。約40年の間に、石垣に対する考え方が大きく変化したことが分かります。
外石垣の特徴
(写真1~5)は、四郎ヶ島地区北西側の石垣Aです。岩盤・自然石を根石に築いています。
北西側の石垣は上段(石垣B)下段(石垣A)の2段になっていて、その間は通路になっています。
石垣B周辺はほぼ藪で、引きの写真が撮れませんでした。石垣Bに設置してある井戸は次回投稿します。
石垣Aは、隅角(出隅・入隅)をはさんで3面から構成されています。(写真1・2)が西面、(写真2~4)が中央面、(写真5)が東面です。
報告書(長崎市教育委員会 2011年)によると、石垣の全長は天端で96m、基底部で112m、高さは最も高いところで約11mに達します。
東面・中央面間の隅角(出角)は、正面近くに回り込んで撮影することができませんでした。角度120°のシノギ角で、算木積みではありません。天端石付近以外はランダムに石を重ねているように見えました。
隅角は、他に小島地区南側の石垣Eの南東隅(写真8)、連絡道接続部の石垣Fの西隅(写真10)、それと石垣A西端部(写真1)があります。いずれも大型の横長石を隅角石にしていますが、あくまでも算木積み(風)といったところで、交互積みは規則的ではありません。隅角石と隅脇石も区別されていません。
築石の大きさは比較的整っていて、60×40cm程度が大半です。ただし、魚見岳台場と違って、個々の築石の整形加工は行われていません。石積みは乱れた布積みの打込み矧ぎといったところでしょうか。一部、築石を斜めに組み合わせた落し積み(谷積み)に見えるところもありますが、どこまで意図的かは不明です。
藪のために引きの写真が撮れなかった石垣Bは、築石の組合せが丁寧でしたが、切石、落し積みと言うには中途半端な石垣です。



(B)中央面天端石、(C)東面天端石、(C)は参考。中央面の天端石を上から捉えることはできませんでした。
天端石は比較的整った角石が使用されています。
石垣Aは天端石が前に張り出していて(写真4)、品川台場(東京都港区)や五稜郭(北海道函館市)、人吉城(熊本県人吉市)などの「跳出/槹出(はねだし)」「西洋式武者返し」のようにも見えます。四郎ヶ島台場の竣工年は嘉永6年(1853年)で、品川台場より若干先行しますが、設計段階に佐賀藩本島藤太夫が品川台場の設計者の江川英龍と接触していることから、こうした情報がもたらされていても不思議ではありません。
ただし、張り出しが確認できるのは石垣A中央面のみで、西面は認められません。東面は不明。中央面も整ったものではありません。また、品川台場や五稜郭の跳出は、天端石ではなく天端石より一段下の石が張り出していますが、四郎ヶ島では最上段のようです。
経年的な石垣の沈下などによってこうした状況が生じるのか、それともやはり人為的な跳出なのか、判断しかねる張り出しです。
なお、「幕末の城(1)」で触れましたが、跳出についての「西洋式武者返し」という現在の解釈が、はたして幕末当時からのものなのか、どうも怪しいようです(時田太一郎 2025年)。西洋式跳出の本来の機能は、雨水による壁面へのダメージを軽減するものだそうです(時田太一郎 2025年)。
石垣Aは、防御壁ではなく護岸目的の石垣としましたが、こうした意味での跳出はあり得るかもしれないと思っています。
この件について、報告書(長崎市教育委員会 2011年)では触れられていません。ことさら取り上げることではないのかもしれませんが、少々気になりました。



(A)石垣C、(B)石垣C前から四郎ヶ島南岸、 (C)石垣D。


(A)突堤から小島地区東岸、(B)(C)突堤東側巻石防波堤。

石丁場と矢穴
四郎ヶ島台場の石垣の石質は「砂岩」です。四郎ヶ島周辺の島嶼は岩礁で、石材は文献史料から中ノ島を中心に切り出された記録があり、矢穴痕が確認されている石丁場(石切場)も、中ノ島全域・松島東岸(長崎市教育委員会 2016年)、四郎ヶ島西岸で確認されています。
(写真11~15)は、四郎ヶ島西端周辺の海岸です。
岩盤や巨石に矢穴痕が認められ、岩盤から長方体(直方体)に切り出した状況も分かります。岩盤から切り出したものは、隅角石や天端石、御石蔵などの構造部に使用されたと推定されます。





矢穴は、森岡秀人・藤川祐作氏の論文(森岡・藤川 2008・2011年、森岡 2017年)によるCタイプで、矢穴口長辺はほとんどが6~8cm前後です。矢穴については、こちらでまとめています。
ただ、森岡・藤川氏は、Aタイプを矢穴口長辺8~12cm、Bタイプを長辺7~10cm、Cタイプを長辺6cm未満としていて、両氏の基準そのままだと四郎ヶ島台場の矢穴はB~Cタイプということになります。ただBタイプは、矢穴口長辺長以外に「深さが矢穴口長辺を凌ぐ胴長の矢穴」と規定されていて、こうした縦長の矢穴が単独の石垣や石丁場でまとまって確認されることがありません。AタイプとCタイプの異形、イレギュラーなものと考えられ、基準的なタイプから除外することが適当だと思います。
ここでは、AタイプとCタイプの境界を矢穴口長辺10cmとし、Cタイプについては長辺6~7cmに分布の中心にあるもと考えておきます。
なお、矢穴と矢穴の間隔は、1~2cmのものが多いようです。これは、盛岡城(岩手県盛岡市)のCタイプなどと比較すると明らかに狭いです。理由は不明ですが、石材が割れやすい砂岩であることが関係している可能性がありそうです。

次回(最終回)は、台場内部を投稿します。
今回は、おもに
・長崎市教育委員会『四郎ヶ島台場跡 範囲確認調査に伴う石垣測量調査報告書』2011年b
・長崎市教育委員会『史跡長崎台場群四郎ヶ島台場跡保存活用計画書』2016年
・長崎市教育委員会『四郎ヶ島台場跡 第1次~第3次発掘調査報告書』2012年
を参考にさせてもらいました。
参考文献は「幕末の城投稿一覧」にまとめてあります。
四郎ヶ島台場2024年4月現地、2026年9月30日投稿。
