安国寺塔と清瀧寺墓所(再)
浅井三姉妹とその縁者(10)

安国寺塔と清瀧寺塔
京極氏は、近江源氏(宇多源氏佐々木氏)に連なる、北近江を拠点とする名門です。戦国時代に京極家の内紛によって浅井氏の台頭を許し衰退します。京極家19世高次(1560年~1609年)も、本能寺の変後に明智光秀に通じるなど、度々滅亡の危機に遭いますが、関ヶ原の戦いの後には若狭一国の国主となり、京極家中興の祖と呼ばれています。
高次は、慶長14年(1609年)5月3日、小浜にて死去。墓所は、現在、京極家本貫地の清瀧寺墓所(滋賀県米原市清滝)にあります。越前産の笏谷石(しゃくだにいし)製の越前式荘厳の宝篋印塔と石廟(越前式墓式)です。
これとは別に、今回紹介する島根県松江市安国寺にも越前式荘厳の宝篋印塔があります。
清瀧寺墓所の高次墓所については投稿済みですが、今回、松原典明氏の著作(松原 2024年)を知り、新たな情報があったことから、清瀧寺墓所についてもまとめ直しました。
安国寺塔
京極家は、高次の次代、20世忠高(若狭小浜藩2代/出雲・隠岐松江藩初代)の寛永11年に、若狭小浜から出雲・隠岐2か国、松江藩26万石への加増転封となります。
これにともない忠高は、小浜に創建した高次の菩提寺、泰雲寺を松江に移転し、安国寺(島根県松江市)には高次の供養塔(安国寺塔)を造立しました。
安国寺塔は、過去帳抜書に、「開山堂脇に泰雲寺殿(高次)の廟所があり、石碑は若狭から取り寄せた」にあるようです(松原典明 2024年)。実際には笏谷石製ですが、いずれにしても、わざわざ取り寄せたところに越前式に対するこだわりを感じます。


安国寺塔は、修復部をのぞく現状高167.8cmの宝篋印塔です。塔身部正面には、蓮華座の上に小花弁を周囲に配した細線陽刻園線月輪(がちりん)を載せ、月輪中央に梵字の金剛界四仏の阿閤如来種子(しゅじ)を刻みます(写真2)。越前式荘厳です。他三面は無文です。
基礎正面は、短冊形(長方形)の格狭間が左右一対で、間に以下を刻んでいます(写真3)。清瀧寺塔とほぼ同じです。
宝篋印塔の形状もよく似ています。
【安国寺塔】
慶長十四年己酉年
泰雲院殿前三品相公
徹宗道閑大居士神儀
五月三日
【清瀧寺塔】
慶長十四年己酉年
泰雲院殿三品相公
徹宗道閑大居士神儀
五月三日

(A)相輪下部から笠、(B)返花座、(C)基礎左側面、(D)基礎右側面。
基礎正面は越前式ではありませんが、左右面は四区間に竪連子と格狭聞を刻む越前式荘厳です。
現地案内、供養塔と略縁起。
越前式荘厳と各部名称については、こちら。

【安国寺】
島根県松江市竹矢町993
拝観料なし。
京極高次供養塔は、本堂(写真5(A))右手にあります。
寺域西側に参拝者駐車場があります。
清瀧寺墓所
京極家当主の歴代墓所は、滋賀県米原市の清瀧寺徳源院にあります。
京極氏の出自は佐々木源氏で、鎌倉時代中期に、始祖(佐々木)氏信(1220~1295年)が佐々木氏の所領の一部、近江江北六郡を継ぎ京極氏を称しました。
清瀧寺周辺は、始祖氏信の本拠本宅の地で、弘安9年(1286年)ごろに清瀧寺を創建しました。その後荒廃したようですが、中興の祖19世高次(1593~1637年)が大津藩主だった慶長元年(1695年)ころから改修を進め、次代の20世忠高も参道と周辺建物群の整備を行っています。
大規模に改修したのは讃岐丸亀藩初代21世高和から2代藩主22世高豊で、とくに高豊は自藩領の一部を幕府に返上し、その替地として京極氏の本貫地であるこの地を取り戻しました。そして、三重塔(国重要文化財)などの堂宇の創建と、周辺のあった歴代の菩提寺跡などから当主墓を清瀧寺に集めました。その後、支藩の多度津藩主を含め、幕末まで藩主の埋葬が行われ、今現在も京極家による供養が行われているそうです。

(滋賀県米原市)
ただ、高次による再整備開始以降、京極家の当主歴代墓所を清瀧寺に定めた時期についてははっきりしないようです。
『史跡清瀧寺京極家墓所保存活用計画』(米原市教育委員会 2022年)によると、高次の清瀧寺墓所は忠高によって営まれたとしていますが、松原典明氏によると、高次の墓所に関する当時の史料は確認されていないようで(松原 2024年)、高次が最初から清瀧寺に埋葬されたのか、領国の若狭国小浜に埋葬され、その後清瀧寺に改葬されたのかは不明です。

高次廟左石廟。


(米原市教育委員会 2022年)も、高次の石廟を寛文11年(1671年)の造営としていますが、それが当初なのか移転改築なのかの記載がありません。根拠も不明。
また、松原典明氏は、石廟の造営時期について、正保期(1644年~1648年)を想定しています。
しかし、個人的には、そこまで新しくなるとは思えません。
京極家略史
京極氏は移封を繰り返していることから、当主などの没年を含め、以下簡単にまとめておきます。
【京極高次】 (1560年~1609年) (19世、若狭小浜藩初代)
慶長5年(1600年 )10月、若狭国小浜藩立藩(8万5000石→9万2100石)。
慶長14年(1609年)5月3日、高次死去。
菩提寺、泰雲寺。
【京極忠高】 (1593年~1637年) (20世、若狭小浜藩2代/出雲・隠岐松江藩初代)
寛永10年8月(1633年)、高次室常高院(初)死去。
寛永11年(1634年)閏7月、出雲・隠岐2か国へ加増転封(26万石)。
寛永14年(1637年)6月、死去。嗣子なし。
菩提寺、玄要寺。
【京極高和】 (1619年~1662年) (21世、播磨龍野藩初代/讃岐丸亀藩初代)
先代忠高の甥。末期養子を許されるが、播磨龍野藩6万石へ減封。
万治元年(1658年)、讃岐丸亀藩6万石に移封。
寛文2年(1662年)、死去。
菩提寺、清瀧寺徳源院。
【京極高豊】 (1655年~1694年) (22世、讃岐丸亀藩2代)
寛文12年(1672年)、播磨国に残っていた所領と近江国清瀧寺周辺の所領の交換を幕府に請願して許される。
清瀧寺京極家当主歴代墓所の成立時期
京極高次関連で、石塔の造立年代を絞ることができるのは、忠高が安国寺に造立した高次の供養塔(安国寺塔)で、出雲転封の寛永11年(1634年)から忠高が死去する寛永14年(1637年)のおよそ3年間に限定できます。ただしこれは供養塔です。
高次室常高院は、寛永10年(1633年)に江戸で死去しますが、遺言で小浜での埋葬を望み、忠高が常高寺(福井県小浜市)を創建しています(写真10)。
この宝篋印塔2塔と清瀧寺京極高次廟は越前式です。

(福井県小浜市)
高和は、院号が「徳源院殿」であることから、当初から清瀧寺墓所に埋葬されたと考えられ、高和以降の歴代当主は清瀧寺を葬地としたと思われます(写真11)。
不明なのは高次と忠高(写真12(A))です。


(A)京極忠高塔、(B)京極高和塔。
忠高は、高次の菩提寺として小浜の後瀬山山麓に泰雲寺を創建しています。高次の院号は「泰雲寺殿」であり、高次は、当初この泰雲寺に埋葬された可能性があります。
泰雲寺は、現在の空印寺(福井県小浜市)にあたるようで、空印寺は京極家の後に小浜に入部した酒井家が墓所としています。泰雲寺は、忠高の松江移封にともない、松江城下に移築していますが、供養塔のある安国寺とは別寺です。
【空印寺 (旧泰雲寺)】
福井県小浜市小浜男山2
後瀬山城の北、山麓居館跡にあります。
忠高については、高和が転封先の播磨龍野(兵庫県たつの市)に菩提寺として玄要寺を建立しています。忠高も当初はここに埋葬された可能性があります。玄要寺は、讃岐丸亀への移封後に香川県丸亀市に移築しています。
ただ、高和の関連書状によると、忠高一周忌の寛永15年(1638年)に、清瀧寺を「京極一族塔処」とし、忠高の墓造営を行っているようです(松原典明 2024年)。それが供養塔なのか墓所の移転なのかは不明ですが、史料的には、これが清瀧寺での江戸以降最初の当主墓塔の造立であった可能性がありそうです。中世の当主墓は、寛文12年(1672年)以降、高豊によって清瀧寺墓所にまとめられています。
高次清瀧寺塔(石廟)、高次安国寺塔、高次室常高院常高寺塔は、いずれも笏谷石製の越前式荘厳(越前式墓式)にもとづくものです。これに対して、忠高清瀧寺塔は花崗岩製で、越前式を踏襲していません(写真12(A))。
前述したように、米原市教育委員会(米原市教育委員会 2022年)は、高次の石廟を高豊時代の寛文11年(1671年)、松原典明氏は高和時代の正保期(1644年~1648年)を想定しています。しかし、高和、高豊に越前式との縁があったとは考え難いことから、越前式の採用は忠高の代までと考えるのが自然だと思います。
高次清瀧寺塔(石廟)は、忠高によって小浜の泰雲寺に造立され、その後、忠高の出雲松江への移封時、ないし高和・高豊によって清瀧寺で造立された可能性が高いと考えています。出雲松江には、安国寺に供養塔を造立していることから、松江には移転していないと思います。
ただ、宝篋印塔について、高次清瀧寺塔と高次安国寺塔、高次室常高院常高寺塔はよく似ていることから、高次清瀧寺塔が高次没年の慶長14年(1609年)まではさかのぼらないのでは考えています。どこかの年回忌で再建された可能性があると思っています。
京極家の祖先祭祀
京極家は祖先祭祀に熱心で、高次も親の18世高吉の供養塔を高野山奧之院に造立しています。高次が始めた清瀧寺の整備も祖先祭祀事業です。
ただ、高次、忠高の段階で、当主歴代墓所とすることまで考えていたかどうかは不明で、忠高は高次の、高和は忠高の菩提寺をその時々の城下に創建しています。
清瀧寺を「京極一族塔処」とすることは、寛永15年(1638年)の忠高一周忌以降、高和そして高豊によって企画・実践された可能性が考えられます。
京極家は、戦国時代以降、数々の苦難に遭遇しています。
戦国時代の家内の内紛によって浅井氏の台頭を許し衰退。高次は、本能寺の変後、京極家の再興を企て明智光秀に通じ遁走します。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、大津城(滋賀県大津市)で西軍の毛利元康(輝元叔父)、立花宗茂らと戦い開城。高次の子忠高は、松江藩26万石を領有しますが、嗣子がないまま急逝します。
どのタイミングで断絶・滅亡してもおかしくない状況を生き抜きます。
このことが、祖先祭祀と、清瀧寺徳源院の本格的な整備に向かわせたのかもしれません。当時禁止されていた末期養子が認められた高和は、とくにその思いを強くしたのではないかと想像します。
祖先祭祀は、先祖に対するただの追慕ではなく、そこから子孫に連なる永続的な親子関係と一族の恒久的な再生に対する願いです。当時普及しつつあった儒学(儒教)が背景にあった可能性もありそうです。 また、近世大名家のほとんどが明らかな出自・血筋をもたないなか、名門京極氏にとっての清瀧寺京極家墓所は、アイデンティティの誇示だったのかもしれません
【参考文献】
・三井紀生「越前式石廟の形式と地方進出について」『若越郷土研究』60巻1号 福井県郷土誌懇談会 2015年
・米原市教育委員会『史跡清瀧寺京極家墓所保存活用計画』2022年
・松原典明「近世京極家の祖先祭祀と墓所造営」『近世大名墓 墓の形成と背景』雄山閣 2024年
2025年4月(安国寺)、2022年12月(清瀧寺徳源院)、2018年12月(常高寺)現地。2026年5月21日投稿。
清瀧寺徳源院墓所の拝観にあたっては、ご住職から特別のご配慮を頂きました。
